ソラマメブログ

2008年08月22日

続ブランド??

もう一度ウェキペディアを読み返すと、『ブランド(英:brand)とは、ある商品・サービスを象徴するもののこと。ある商品・サービスを、別の商品・サービスから区別するための商品名称やシンボルマーク、模様だけでなく、消費者が商品・サービスを見た際に想起させる周辺イメージ総体もブランドと呼ぶ。』とありますね。
また、『文字や図形で具体的に表現された商標もブランドの一つである。狭義には、ファッション分野での高級品イメージのついた一部メーカー及び商品群を指す(「ブランド物」)。』ともあります。
ざっくりと言ってしまうと、「他と区別するための記号性」や「物に付随するイメージ」をブランドと呼ぶと考えてもいいでしょうか。

 
(こんな話を書くきっかけの一つ/屋外展示場に実物があります)

『ブランド??』でぽっぷさんから頂いたコメントはなかなか面白く、特に『Z’s CA=Zusi=食べもの』という個所は興味深いと思います。
上記で再確認した定義によると、本来的なブランドやブランドイメージというものは「物」に従属するべきでしょう。
しかし、Z’s CAというブランドは、私という人を間に挟んでから商品にたどり着いています。
ぽっぷさんがどこまで意図的に書いたかを深読みするつもりはなく、もちろん揚げ足取りで話を進めようというつもりもないのですが、ブランドが物ではなく人を指すか人に直結するという図式がSLの中にある、とは言えそうな気がします。

これは単純な実例ですが、その時々に認知されている商品によって私の認識のされ方も変わるわけです。
ミカンの人であったり、鍋の人、かき氷の人とか。(笑)
SLの中ではクリエーターと商品は密接な関係にあって、たとえコラボによる商品であっても、商品への評価は人へと直結する形で表現されることがあります。
その多くの場合が社交辞令やその場を盛り上げるための話題にすぎないとしても、ブランドを誉めるよりはクリエーター個人を誉めることはよく体験するのではないでしょうか。
SLのクリエーターの多くが個人展開で、その商品もクリエーター個人へ直結していることが多いからだという背景もあるはずです。
それを自己表現としての創作性や作家性の一形態と認識するのか、あるいはブランド化に至れない未熟なごっこ遊びでしかないと分析するのか、そこは考え方なのだろうと思いますが・・・。
SLの中にも、集団体制による創作活動を行っていて、ブランドとしての括りで「ブランドと物が結びついている」例もあります。
私でも知っているいくつかのブランドはそうなのですが、また規模的にもSLの中で成功者の部類に入ると思われるのですが、それらは決して主流であるとは言えないような気がします。(少なくとも日本の中では)

SLは人本位主義で成立していると思います。
インワールドでの活動はコミュニケーションが多くの比重を占め、企業SIMやカフェには担当者が配置されていないことが批判(HPに担当者が常駐していないからと文句は言わないはず)の対象となり、各種のパフォーマンスや創作活動は個人への批評へと直結もする。
良くも悪くも個人が持つネットワークや人間関係でイベントなどの成否も左右されるという側面があり、あるいは人への反発や攻撃などが時に陰湿な部分を垣間見せもするのでしょう。
人がいて、ブランドがあって物がある。
というよりはむしろ、人=ブランド(イメージや評判含む)の一体性があって、そこに物があるという図式。
まず人が認知されて物があり、物が認知されれば人となる。
そう考えると、虹野さんの猫足堂の話にも理解がつきます。
和物と洋物を区別するブランド分けも、同じ虹野さんが作るものであれば結果的には一つのブランドとして「虹野さんという認識」のもとに集約されてしまう。

これにはもう一つ、SLでの「創作に必要な要素」の問題も影響しているでしょう。
オブジェクト・テクスチャー・アニメ・スプリクトの四つが代表的な要素となるはずですが、四つのうちの複数を得意としていれば、同じ要素の中で別の物を作ることに大きなハードルはありません。
スキンを作るのも服を作るのも、同じように一定程度のテクスチャー(画像ソフト)の技術があれば可能でしょう。
乗り物のスプリクトを自由に扱える知識があれば、建築物やセキュリティーのスプリクトを扱うことも不可能ではありません。
もちろん、一定程度の基礎知識は必要と思われますしセンスの問題もあるので、いい服を作るからいい建築を建てれるかどうか、あるいは食べ物を作れるからいい乗り物を作れるかどうかは別のことです。
ただ確実なのは、基本的な技術が一定レベルに達してしまえば、SLの中にあるもののいくつかをジャンルを超えて制作することは可能であるという点です。
ソラマメを気ままに眺めていても、何屋さんか分からないね・・・と自ら冗談混じりに書いている人を見つけることは、そうは難しくないはず。
得意先の流通経路の開拓や各種の申請業務(行政手続)などの複雑なことがないため、保健所も建築課の審査もないまま食べ物も高層建築だって建てられるのがSLですからね。


つまり、SLの中のブランドにおいてはその認識は商品よりも人に属しがちになる図式があり、人(クリエーター)が制作する分野の垣根が低いということも確かであるとすれば、商品を分けることとブランドを分けることとの一体性は比較的緩やかに存在せざるを得ないのではないか?
私が私として作る以上、ブランドを分けることをもって積極的な意味付けと展開が行われなければ、その効果や価値はさして見出せない。
・・・って、ちょっと結論からのこじつけだという気がしなくもないですが。(苦笑)
これをわざわざ書いたポイントとしては、SLのブランドは人に付くものではないか?という点と、クリエーターが作る物のジャンルに技術的な制約は決して高くないだろうという点ですよね。

まあ、看板(ブランド)見て物を作る前にお客を見ろよ、という意見もあるでしょうし。
長文駄文に最後までお付き合いいただいた奇特な人には、感謝を。(笑)


☆参考

『ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e337977.html


☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)

Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27

Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27  

2008年08月16日

ブランド??

『ブランド』(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

  

最初に自分のブランド名というか、ロゴを考える時、当時作っていた寿司やたこ焼きなどにこだわらずに将来的には建築なども扱うつもりで、出来るだけ「特化しないブランドのイメージ」を想定したつもりでした。
そのため、ロゴデザインについては食べ物を扱ってる感じがしないという指摘があり、それはそれで意図したことなのですが・・・。
先日、初めて商品化としてのスカイボックスを紹介させてもらったように、今後は家具や建築の分野もSLの中で扱いだそうと考えているわけです。
しかし、「Z’s CA」はもう食べ物のイメージが定着しているので別のブランドを立ち上げて区別したらどうか?と、そんなご意見をもらってビックリしてしまいました。
しかも、別の方にその話をしたところ、私がビックリしたことに驚かれてしまったという。(爆笑)

「Z’s CA」は「Zusi's Creation Atelier」の略になっています。
英語表記として適切かどうかは自信がありませんが、要するに「私がSLの中で作る物全て」を扱うための意図を込めてつけた名前です。『Zusiの創作工房』といった感じですね。
最初から建築系を扱うのは既定路線でしたし、食べ物以外にもどこでもチェアー(装着タイプの椅子)やコラボの誕生石ピアスも、現に扱っています。
売り上げの主力が食べ物であることには間違いないのですが、食べ物だけか?というと、それは違うという自己認識があるんですなぁ。
一部の方に言っていただいている「フードクリエーター」という呼称も、気が付いている人は気が付いていると思いますが、自称として使ったことはないんですよ。
あくまでも便宜的に、紹介する時に使う呼び名として受け入れさせてもらっているという感じです。
ある方に言わせると、物を作ってるというよりはアニメを専門にしていると思った・・・とのことですし、人によっても感じ方や受け止め方が異なっているという話でもある。(笑)

   

で、何をぐだぐだ書いてるのかというと、ブランド分けのためにもう一つ別ブランドを作るかどうか、そこを迷ってるという話なんです。
自己認識と定着している認識とのずれが大きければ、そこは率直に受け入れてブランド分けをする必要がありそうです。
反面、まずブランドありきで自意識過剰に展開ばかりを急いだとしても、中身が伴わなければ無用な認識の混乱を招くだけに終わるでしょう。
SLの中で活躍されている有名なブランドはいくつもあると思います。
そうした有名ブランドの数々には遠く及ばないにしても、さすがにもう、自分自身のブランドを無名のものだと考えることには無理がありそうな気もします。
Z’s CAを知らない人はまだまだ多いわけですが、それにしても知ってる人には一定のブランドイメージがあるのではないか?と思えるわけで、「知名度」と「既にあるイメージ」と「自分の認識」の三つのバランスをどう考えるべきか・・・。

自分の考え方に沿った上で、きちんと作りたい物を作っていく。
その中で何らかの価値や意味を提案し、それを共有してもらうことができれば一番理想的です。
その基本的なスタンスにおいて、作る物の分野・ジャンルとブランドイメージを強固に結びつけて考えるつもりはあまりないです。
考え込んでしまうのは、ブランドを分けていくということ「そのもの」もまた自分のスタンスの表明に他ならず、それが今後商品を作っていく上でも意識・無意識に大きな影響が出てしまうものであるという気がするからですね。


これを書きながら考えていると、やっぱり分けないまま続けていこうかなぁ~という気分になってきます。
今作っているソファーの商品化までには、何らかの答えを出しておきましょうか。
ここに書くかどうかは別にしても。(汗)

これからブランドを立ち上げる人、別のブランドに分けようかと考えている人など、何らかのご参考にでもどうぞ。


☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)

Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27

Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27  

2008年08月09日

幸せとボイチャとSL。

結婚式と披露宴に、インワールドで初めて参加させてもらいました。
披露宴でのウェディングケーキを作らせてもらった(ケーキ屋さんとのコラボです)関係で、披露宴では裏方側の動きでしたが・・・。
とはいえ、柄でもなく少々「幸せ」に当てられてしまいましたね。(苦笑)


話は変わるのですが、先日ふと考えさせられることがありました。
私はパソコンの周辺機器や周りの環境からボイスチャット(ボイチャ)はやりませんし、また興味もないのですが。
ある場所でいつもの感覚のままチャットで会話していたところ、次々に人がやって来たんですね。
それはよくあることで何の注意もしていなかったのですが、どうにも会話の流れが妙なんです。
ほとんどの人は無言なのに、先ほどまで私と会話していた人の返事や言葉だけは見える。
あーチャットがうまく表示されていないのだなと思い、ちょうど別の用事もあったので移動してリログしたわけです。
しかし、どうにも気になるのでチャットのログやミュート設定などを一通りチャックした後、もしかしたらボイスチャットを使っていたのではないか?と思い当たったという。
案の定、後からIMで確認の連絡を入れてみると、後から来た人のほとんどがボイスチャットを使っていたということでした。
重さ対策も考えて、私は日ごろ使わないような余分な機能はすべて止めた環境設定で使っているために、ボイチャのオンオフが表示される以前の状態になっていたわけです。

VWBCの収録に関わった時もそうでしたが、SLもボイチャを当然のように使っている人と、私やその周りで普段コミュニケションをしているようなテキストチャットメインの人がいるんですよね。
シンプルに「一つの機能を使うのも使わないのも自由だ」という話で考えてもいいのですが、自分の声を直接使うかどうかというのは、もしかするとSLに対しての考え方にも大きく影響しているような部分も含まれるのではないだろうか?と。
そしてそれは、SLという世界が異なる考えやスタンスで参加することのできる仮想世界として、一定の選択肢の幅とキャパシティを持っていることの証拠でもあるんだろうなと、そんなことをふと思いました。


統計的なものは知りませんが、パートナーや恋愛関係にある人はボイスチャットを使ったり、あるいは携帯電話などでもやり取りをすることが少なくないとも聞いた覚えがあります。
私たちはごく当たり前のように「自分のやり方」でSLをプレーしているわけですが、そうした自分のスタイルを決めることのできる自由度という点においては、たしかにSLというのは幅広いような気がします。
そんな幅広いそれぞれのスタイルの中で自分が関わっている身の回りの人たちとの接点というものを考えてみると、そこに「似たスタイル」を見つけることになるのではないか?
ファッションやアバターの形態そのもの、あるいは日々の言動だけでなく、『インワールドにインする設定』でさえ自己表現であると思えば、これは何となく奥深いものを感じてしまうのですが・・・さて。

まあ、その人の個性や特徴・事情は目に見えていない些細なところにも表れるものであり、SLとRLの接点がそこにはあるんでしょうね。


・・・と、強引にまとめなければ終われない話だねぇ。(爆笑)  

2008年07月25日

聞くこと。

人と話す時の割合は、自分が話すよりも相手の話を聞く割合を多くした方がいい、と言われていると思います。
ついつい自分のことばかり言いたい事や伝えたい事を一方的に言ってしまいがちですが、話すよりも聞くことで伝わるものもあると。
また実際問題として、伝えたい内容を相手に理解してもらわなければならない時、自分から説明するだけよりも相手の質問に耳を傾け的確に誤解や不明な点を補足したほうが、結果的には「よく伝わる」わけです。

SLをやっていると、何か一つのことをするためには関係者の意見調整や当事者からの確認などの様々な打ち合わせが必要になってきます。
特に「作る側」や「仕掛ける側」に回れば、それを実感する機会も無数にありますよね。
人を信頼して任せることと、ただ単に放り投げて上手くいくかどうかは運次第・・・ということの間には、相当な違いがあるでしょう。
程度の差はあれ、前者として上手く物事を進めることを考えて動こうとすれば、打ち合わせや認識の確認作業は欠かすことができません。

で、そうした実際的な会話の際に、必要と思われることを相手に伝えるために「聞く」ということを忘れがちになって、一方的に気がつくまま思いつくまま伝言ゲームをしてしまいがちではないかと思います。
他人ごとではなく、私自身が説明したり伝える必要があった機会を振り返ると、反省させられることは沢山あります。
相手側に理解の確認を求める機会をとったり、軽口を意図的に挟んで話の流れにメリハリを意識したり、必要な連絡事項を漏れなく把握しながら自分と相手の集中力や理解度などにも気配りしたいと思うのですが・・・。
むろん、それを実践することはとても難しいことです。
何を聞いていいのかもよく分からない状態を質問がないことと勘違いして、相手が理解したものと思い込んでしまったり。
軽口のつもりが話自体が脱線してしまい、自分でも悪ノリしたり。(汗)
そしてだからこそ、「聞くこと」の大切さを理想として忘れずにいるべきなのでしょう。

SLには、RLの技術や技能が反映できる一面があります。
インワールドで物事を進めるためのコミュニケーションを的確に行えるのであれば、それはRLでも通用する部分だろうと思います。
社会的な肩書き・立場というフィルターの少ないコミュニケーションであり、個々人の表現力や理解力に依存するのがSLでの打ち合わせではないかとも思います。
だとすれば、自分のそうした能力を高めたり欠点や長所を発見することに、インワールドでおこなう打ち合わせなどは有用なのかもしれません。
「ただ情報を多く伝えればいい」という単純なところから抜け出すためにも、的確に取捨選択した情報を伝え、相手の話を聞くことによって相互理解や共通認識を持てる質の高い打ち合わせを行う。
そのことが、物事をよりよく成功させるいい効果を生むのではないか。


能動的に「聞くこと」のできるコミュニケーション能力。
物を生み出すことに必要な能力の一つとして、そんなことも思う最近です。
理想は理想で、実行はそんなに簡単じゃないんですけどね。
聞くことの大切さと効果を意識して、的確な打ち合わせで効率よくいいモノを生み出す。
そういう目標そのものを頭の片隅に置いておくことは、まあ無駄ではない・・・と思いたいところです。

ただ情報を並べて伝えるだけでない、相手に理解してもらえる情報の伝え方を実践的に身に付けることのできる機会。
インワールドでの打ち合わせをそういう風に見てみれば、これはこれで案外面白いことではないでしょうか。
楽しみ方の一つだと言えば、少し言いすぎでしょうけど。
極端な話、大きな企業の新入社員の研修などでチームでも組ませて、インワールドでの商品開発やイベント実行をやらせればいいのかも。
SLの持つ教育的側面というのは、こういう部分にも隠れている?
それとも私の考えすぎか。(笑)


あ~~いくらこんなこと書いてても、実際に自分で打ち合わせに参加して物事を決めたり全体像を把握していかないと、いまSLでやってるいくつかのことは進まないという。
どれも規模的にはたいしたことをやっている訳でもないはずなのに・・・。
まぁ、打ち合わせに振り回されて物事が進まないというのが最悪なので、それだけは回避して少しでも効率よくイイ打ち合わせになるよう意識を持っておかなくちゃ、やみくもにやるだけではいかんよなぁ~というお話でした。
理解力や整理能力、コミュニケーション能力などを兼ね備えてる人がうらやましいですねぇ。(苦笑)  

2008年06月30日

血とし肉となり。

その糧をもって生きる。
SLで生きることは、RLでの生(せい)とかわりがないのかもしれない。
ただし、その身に取り込み咀嚼していくのは他者の夢や挫折、別れや出会いであるというだけで・・・。



仮想世界を支えているものはRLの人間です。
その思いや欲望があるからこそ「仮想」として現実に存在できている。
仮想世界を現実とは切り離された虚構であるとしか見れないことは、ある意味において、現実世界の人々が持つ思いや心を無視するに等しい気もします。
世界としての制約や形の在り方が現実とは異なり、その点で仮想の持つ非現実性は確かにあります。
しかし、だからこそ仮想と現実をつなぐのは人であり、「人の思いそのもの」が両者に共通して存在する核心なのかもしれない。

やりたい事が見つからずに去っていく人、やりたい事にくじけて去っていく人、やりたい事をRLに見つけて去っていく人。
SLを去る、もしくは長期の休養を必要とするということに、どこかしらの哀しさを感じてしまうのがSLに生きる人々の気持ちだという気がします。
それは理屈抜きの部分であり、残念な気持ちや反発し引き止めたくなる条件反射、そしていつか自分も・・・という切ない共感がそこにはあるのでしょうか。
生において死が必然であるように、SLに関わることには「去る」ということもまた、リアリティを伴うものだと実感していくのが自然な感覚にも思えます。
人の死を体験していく中で自分自身の生死観を見つめていくかのように。

では、やめてしまった何かや去っていくことは無駄なことだったのでしょうか?
古今東西、人は生まれて死に続けてきたように、SLの中でも”それ”は繰り返されていって当然のことなのかもしれません。
それが営みというものではないか、とさえ思う。
RLの私たちが先人たちの繰り返した営みの上に立つように、SLの私たちもまたあらゆる成功や挫折、出会いや別れの上に成り立ち生きている。
たとえお店が無くなり、人が去り、二度と開かれないイベントを思ったとしても、それらは「無」ではなく今を支える営みを構成している、とても大切な何かであるのかもしれない。
そして、それは「人の思い」なのではないのか??
悲喜こもごも折り重なり積み上げられた人の思いの上に立ち、今とこれからがある。
そこに自分がいる、それこそがSLの生ではないかと・・・ふと思ったり。

生きるということは生かされるということでもあり、人が一人では生きられないことと同じように、何ものとも無縁で生かされている訳もない。
去っていく人、去っていった人が残してくれたものの数々こそが、実は私たちを支えてくれる価値あるモノなのかも。
人々の思いを咀嚼して自分の思いを存在させるSL。
それはまた、自分の思いが誰かに咀嚼され誰かを生かすことにもつながる、営みの輪の中にあることも意味するのでしょうか。

去っていった人、去っていく人、これから出会うであろう人。
全ての思いの中で生かされる自分を思えば、他者への感謝ということを率直に感じざるをえません。
ありがとう。



いつか、自分が他者の糧となれるように、生を全うしたいものですな。  

2008年06月15日

ありがとう。

そして、お疲れ様でした。

『unOfficial Linden Blog 日本語翻訳版』
http://lindenblog.navisl.jp/

リンデン社も、メンテナンスや重度の障害情報ぐらいは日本語訳を付けておいてほしいですよね。
時間差が生まれて外部委託でもいいから、何とか対応して欲しい。
英語が世界的な公用語であることを否定しても仕方はありませんが、だからと言って、利用者へのサービス提供のスタンスとしては現状が最善を尽くされているとは言い難いのが残念です。

無償の善意や無限の協力を、すべて新技術(仮想世界の構築?)というだけで利用者に求めるのは無理があるでしょう。
コレとこれ、必要なものは必ず提供されるという安心や信頼がなければ、足らないところを補うことや我慢することにも限界が訪れます。
儲からないからやめていく・・・というような表層的な人ばかりではない点を、ちゃんと見落とさないよう理解してほしいものです。

極論すれば、操作ボタンの日本語化よりもメンテナンス情報や規約の日本語化のほうが重要だと思うよ。
素人考えだけど。(苦笑)  

2008年06月07日

イベント運営覚書。

小さな誕生日会などにいくつか関わってきて、SLの中でイベントのようなことをする事について思うこともあるので、少し覚書。
一般的なRLのイベントを企画運営した経験はないので、あくまでも素人の書き散らかしです。(苦笑)

SLで一番気を使うのは、システム的なトラブルの発生リスクとその対応でしょうね。
ログインできない場合はもちろん、SIM落ち・司会のフリーズ・文字化け・重すぎる挙動不審と操作困難・・・などなど。
多くの場合、運営側の人間は一人ではなく複数いるので、いくつかのフォローは可能です。
要するに時間をつないだり、最悪の場合は打ち切りを決定できる人間がメインの司会以外にもいたほうがいい。
リスクの分散ですわな。
具体的には、事前の打ち合わせで責任者を決めつつ「現場での司会と責任者を分けておく」ほうが、実はいいという。
それが無理ならば、全体の進行を把握していて信頼できるスタッフを必ず用意しておくこと。
反面、役割分担は責任の所在を不明確にして、トラブル時に船頭多く・・・のミスを引き起こしかねないので、これも事前の打ち合わせと認識の共有が前提となることは言うまでもないでしょう。

SLで十数人を超えるようなイベントや集まりを上手く取り仕切るには、事前の準備が不可欠になってきます。
段取りを決めることも必要ですが、どんなに立派な段取りでも企画した本人や数人のスタッフにしか理解できていなければ、実際の現場では段取り通りに進行することはありません。
段取り通りに進行させるには参加者の誘導や案内も大切になりますが、スタッフ側の全体進行の理解と役割分担の明確化、各責任者とその担当分野の把握、そうしたスタッフ全体を取り仕切る必要性が肝心になる気がします。
具体的には、誕生日会の場合にはイベントで使うクラッカーやケーキなどの準備が必要になると思います。
クラッカーを配置したり配るのは誰か、使い方の説明をどうするのか、ケーキの手配は誰がするのか、必要なら当日の操作は誰がおこなうのか。
個別の役割を分担させるのか兼任させるのか、まずは人の割り振りが発生するわけで、「細かい操作や手順が必要な部分」と「人を動かすことが必要な部分」の意味の違いを理解しておくことが企画運営するにあたっては大切でしょう。

SLでは、これがかなり難しいんですね。
人に役割を割り振っていく時、その人が割り当てられた操作や行動を適切に行えるかどうかの判断が必要になって、それはSL内での熟練度や人物的な信頼度に左右されてくるわけです。
身内のパーティーぐらいならば”なあなあ”と”まあまあ”で何とかなるでしょうが、大人数が参加するとそうはいかなくなってくる。
そこで必要なのが十分な事前準備であり、本番以上の『「準備を取り仕切る」ための準備』となってくるわけです。
PC環境からSLでの熟練・理解も様々な参加スタッフを上手く取り仕切るためには、本番を上手く進行させる以上に、事前説明やミーティングを管理運営する手法の意識と手間暇(この時間というのが一番貴重)がどうしても必要になってきます。
しかも、冒頭に書いたSL特有のシステム的なトラブルや、個々人のRL事情を加味したなかで準備段階を進めていかなくてはなりません。
ある意味、ぶっつけ本番でどうにかやり繰りすることよりも、事前の打ち合わせや意見取りまとめ・リハーサルなどを完全にこなすことのほうが難しいはず。

SLの特性として、土地やグループ・オブジェクトの所有者などに付随する、システム的に与えられている絶対的な権限というものがあります。
各種の設定や取り扱いについては、オーナーや権限を与えられた者にしか不可能な事柄があるわけですね。
こうした側面の把握を欠いたままでは、先述した「人への割り振り」も無理なわけですよ。
つまり、SLで一定以上のイベントを企画運営するためには、SLの仕組みに精通していなければならない。
その上で、イベントとしての役割分担の把握管理と共に、SLの中での権限の所在とその担当をも把握して動かせなければ、全体をうまく管理しきることは困難でしょうね。

言ってしまえば、イベント運営する人の責任者が持つ「イベントの中での権限」と「SLの中にある操作や設定関係に関する権限」の二重構造があるのではないか?ということです。(割愛していますが、権限に責任が同居していることは自明です)
そう考えれば、実は、人を動かすことにはSLでの権限が不要であることも見えてくるわけですよ。
規模が大きく運営側の参加者も大きくなるようなイベントや集会の場合には、実際に『その人にしか出来ない操作』を担当する役割は、全体を把握して管理するような立場の人と区別しておくことも有効な方法ではないか。
人を動かすこととSLの操作が伴うことの区別化・明確化。



まあ、お誕生日会レベルの規模でここまでの意識が必要だとは思いませんが、結婚式だの何だのともなれば、当然こうした意識は皆さんお持ちなんでしょう。
こういうことは、えてして意識していても行動することが難しい話なわけで、こうして書くだけのことでも整理しきれているとは言えない。
SLではクリエーターの立場が一段上に見られる(個人的には必ずしもそう思いませんが)と言われる中、イベントの運営管理を適切にこなせる人材もまた、かなり貴重な存在なのではないかと考えてしまいますねぇ。
もう少し具体的で細かな点にも思うことはあるのですが、これを一度書くことでそれらを思い出すきっかけにでもなればと。
だから覚書。(笑)

つまらない文章を最後まで読んでいただいて、ありがとでした。  

2008年05月09日

SLでの死とは。

連休だし・・・ということで、SLに関わってから遠ざかっていた読書を少し。
一つは、忙しくても年に一冊は太平洋戦争や近現代史の本を手に取ると決めているので、そちらを。
もう一つはSFで、『敵は海賊・正義の眼』。

相変わらず神林長平さんはいいですね。
「正義の眼」の意味も、読み終えると深いモノを感じます。
しかしラヴはよかったな、ラヴは。(笑)

敵は海賊シリーズに限らず、神林さんのテーマは「言葉」だと思います。
そこに表面的な記号性や意志の力(人だけでなく機械や戦闘機の意思が登場するあたりSF)などを絡めて作品ごとにアプローチを繰り返しているのでしょうが、印象に残っているモノの一つが「コミュニケーションの断絶が死である」という考え。
まあ、死者との対話というのは古典的というか王道で、SFから神話まで古今東西腐るほどあるわけです。
死という壁が一枚間に立ってしまうと、こちら側と向こう側のコミュニケーションは正しく成立しない。
裏を返せば、コミュニケーションが成立しない状況を死と。
ただし、意思疎通ができないからと言って「どちらが死んでいる」かは、実は当事者には決定できない可能性もある。(苦笑)


SLをやっていて感じるのは、とにもかくにも「インしないことには始まらない」という点ですね。
別のネット上やRLで接点がある人たちは違うのでしょうが、SLの中で関係が成立してるならば、SLという触媒が無ければ何も起きなくなってしまう。
悩みや苦しみ、喜びや楽しみも、SLという接点でコミュニケーションすることによって共有し理解したりすることができるわけで、インしなければ無(む)です。
何らかの事情を分かっていれば、待ち続けることで”次”を信じることはできるでしょう。
しかし、何も分からないままの断絶は、どことなく”死”にも通じるものを感じます。
コミュニケーションの断絶、あるいは意図的な拒絶。

生や死に理由が必要かどうかは難しいところです。
さらに、その理由を説明する義務や必要もあるのかどうか。
ただ、理由のはっきりしない死、つまりはコミュニケーションの断絶に直面させられると、人は戸惑うし心配してしまう。
「死を心配する」というのも、かなり言葉遊びなものですけどね。(笑)
どうしたの?と言いたくなるわけですよ、平たく言えば。
しかし、そこにはコミュニケーションの断絶があるので返事はない。
(実は考えすぎで、くだらない些細な理由で一時的な音信不通になる場合もあります/笑)

言うまでもないことですが、SLの死はRLの肉体の消滅を伴う死ではないので、さいわいにも復活があります。
ある日ふと戻ってくるかもしれない。
別アカで楽しくやっているかもしれない。
復活した状態でコミュニケーションがとれていない場合は、さしずめ死後の世界を思うようなものでしょうか。
SLという世界で死んでも、それがRLの可能性までもを失うわけではない所に救いを感じます。
もっとも、だからこそSLの生(コミュニケーション)は軽い、という否定的な裏返しも存在するかもしれませんが・・・。

人は変化に慣れていくものだし、忘れていく生き物なんでしょう。
だから大切にしたいモノや忘れたくないモノの尊さを思う。
生であれ死であれ、そこにある意志は尊重したいものです。
人にはそれぞれの事情や思いがあるから、それを責める気は毛頭ないですしね。
理想どおりにはなかなかいきませんが、コミュニケーションの断絶に直面しても次を信じて待つ、あるいはその人にとっての次をどこかで応援する気持ちまでは捨てずにいたいものですな。



数か月?ぶりに連絡をくださった方がいて、そんなこともつらつら考えて書き散らかしたこの文章。
SLに葬式は無い・・・と以前にインワールドで話題に出たことがありましたが、偲ぶ会、思い出を語る会ぐらいはあっていいかもしれませんね。
誰のというわけではなく、SLの中でこうしたことに直面してきた皆さんにとって、何かしらのご参考までに。

意味不明(思い付きの文章ですから/汗)だったかもしれませんが、最後まで読んでくださってありがとうございました。(礼)  

2008年04月28日

人と向き合う。

以前、カフェのことをお悩み相談室かカウンセリングと言った方がいて、思い当たる節に納得したものです。

SLの中で忘れてはいけないのは、アバターの向こう側に人がいるということで、仮想世界の中で起きたことの影響はRLの人間に無関係ではないということでしょう。
やっているのは、まぎれもなくRLの人間。
SLに対する考え方はそれぞれで、ただのゲームさ~と割り切って気軽に楽しむ人から、SLの中にとどまらず商売の成功や恋愛を探し求めるような人もいる。
そこの温度差というものは人ぞれぞれだとしても、お遊び感覚だったのに自分でも思わぬことで傷ついたり喜んだり、もちろん深い思い入れの中で悲喜こもごもを感じることはあるはず。
私自身も含めて、RLの人間がいてそれに関わっているということの意味合いは、分かっているようでいて分からないのが現実ではないかという気もします。


SLの核心はコミュニケーションだと思っています。
コミュニケーションは人がいてこそ成立するわけですから、人がいて成立するのがSLということになります。
企業サイトのHPに担当者が常駐していなくても不思議なことではないはずですが、企業SIMに担当者がいなければ手を抜いているように感じてしまうのがSLの不思議さというもの。
あらゆる物を作っている各分野のクリエーターがいなければ、SLでは何もできずに何も存在しません。
しかし、実はSLの中でもっとも大変で価値のある職種は接客業なのかもしれない・・・と。

人が人と接することには、とても大きな”力”が必要なのだろうと思います。
恋愛などはまさにそうで、一人の人と向き合って沢山のことを共有したり理解したり努力がいる。
その労力が苦にならないから恋愛になるのだと言われればそうかも知れませんが、自分が使える絶対的な時間や体力には上限があるわけで、人と向き合うことを優先できるという意味や尊さに気づかされるものはありますね。
ましてや、仕事として人と関わり向き合うことともなれば、恋愛とは異なるとはいえ似たような力が求められる点は同じでしょう。

接客といってもピンきりで、物を作って販売することも商品を通じたコミュニケーションだという側面があります。
明るく楽しいみんなで盛り上がるカフェから、落ち着いて話のできるカフェやバー、接客業の華とも言えそうなクラブなど、さらには仮想現実の世界とは言え風俗系もまた接客の一つには違いないわけです。
お店ごとの雰囲気やその中での人間関係など様々なことがあるので、一口にこうだと決め付けた話は無意味だと思います。
プロ意識をもったお店から趣味やゲーム感覚のお店まであるでしょうし、だからこそのSLでもある。
ただ、物を作ったりすることに比べると、直接人と人が関わるだけに、その影響は確実にRLの自分や相手にも反映されやすいのではないか?
そこは思ってしまいます。


SLにはプロが少ない、ともよく言われることです。
その理由や背景は別の機会に譲るとして、プロとして知っているべき注意点や対処法などを知らないことの危うさは、忘れるべきではない気がします。
人の悩みを聞いたり相談に乗ったり、そんなことも本当にカウンセリングのノウハウを持っていれば別でしょうが、やれるつもりでやれば簡単にどうにかなる・・・ものでもないわけです。
接客業の中でも、まだ軽いノリの無料カフェなどは自分たちも楽しむというスタンスで働くことができるかもしれませんが、料金が発生しチップも少なからず必要なお店などではそれに見合ったサービスを提供しなければならない。
そこで起こる様々なことはRLの人間の感情や精神に大きな影響を与えるわけで、しかもプロとしてRLの経験があればともかく、そうした影響をやり過ごしたり自分でコントロールできないことだってあるかもしれません。
例をあげれば、スタッフとお客さんの恋愛話などはそうしたものの一つで、たとえお店のルールで禁止とうたってあったとしても、プロの心構えや対応が身に付いていなければ気持ちが動かされることは仕方がないと思えます。(スタッフもお客も)

人が人と向き合うのは大きな力が必要だし、そうした力はRLの人間を大きく揺さぶる。
それでもできる人と、そうじゃない人がいる・・・でしょう。
怖いのは、できない人ができる人のことを見て、自分にもできるんだと思ってしまうことではないか?という気がします。
たぶん、そうした人間関係の中で自分を保てる人たちも傷ついたり疲れたりしないわけではなく、そうしたダメージをどう扱っていいか分かっているだけではないでしょうか。
SLでは接客業の敷居は低いし、RLではできないことをやってみたいという意味でも入りやすいはず。
しかし、その中で受ける影響が確実にRLの自分にも跳ね返ってくるのが接客業、でもあると思うんですよ。


恋愛や人間関係に疲れてSLをやめるという話は、ソラマメにも当たり前のように見かけます。
だからこそ、恋愛や接客業の中で人と関わり向き合っている人たちに凄さと尊さを感じてしまうのですが、反面で「恋愛やRLの接触はタブー」というネット上の警句も一理あるわけです。
恋愛ならば自分が関わる相手を自分で選べます。
しかし、接客業ではそれができない。
物を作っていればやめる時は手を止めればいいだけですが、お店で働き信頼関係やしがらみが生まれていれば、やめるにやめにくい状況だって起こりうる。
うまく回っていれば何でもないようなことが、ほんの小さなすれ違いからどんどんと重荷になるようなことは珍しい話ではないでしょう。

繰り返しですが、接客業で頑張っている人たちは凄いと思います。
アダルト方面のことも、本人が好きでやっているなら別に問題はないと思っています。
そうしたことに関わっている全ての人に言いたいのは、ただ一つ。
疲れきってヘトヘトになるまではやらないで、と。
これは恋愛にも言えることで、抜けだせない苦しみの連鎖のようなところには落ち込まないでほしい。
身動きとれなくなる前に抜け出すか、誰かに打ち明けてください。
それぐらいしか思い付かないですが・・・。


以上、人と向き合うことの苦手な人間の偏った意見ですな。(苦笑)
人の気持ちを受け止め、相手に伝える努力をする。
あるいは、それを仕事として受け流したり、楽しんだり楽しませたり。
そんなことについて、つらつら答えの出せない考えを巡らせる今日この頃。
楽しいことや得られることも一杯あるでしょう。
みなさん、頑張り、そして楽しんでください。

人と向き合うこと、そこには仮想と現実の区別はない・・・かな。
ただ、向き合うべき人がいるだけで。  

2008年03月09日

日常の中で。

記念日やイベントとか、実は苦手なんですよね。

特別なことをしなければならないという強迫観念みたいなもの、それに従うことが正しいというような暗黙の価値観、そこに息苦しさを覚えてしまうのかも知れません。
逆に、特別な機会があるからこそ何かをしようと思って出来る、という考えはよく理解できます。
記念日やイベントだから嫌いということではなく、そこに何を感じるのかという微妙な部分で受け入れることの是非が決まるというか。
空気に染められて主体性を見失う自分の姿がどうにも苦手だ・・・と書くと、格好つけすぎですけども。(苦笑)

特別な時に特別なことをしようとするのも、それを”きっかけ”として自分で選ぶことならばいいと思います。
しかし、じゃあ日常の中にそうした価値はないのだろうか?と考えてみると、「特別な時を特別扱いするあまりに日常の価値を見失う」ということへの疑問は避けられません。
「特別な日」と「日常」という二分法がまず何か??という話でもあります。
昔、サラダが美味しかったから記念日だと読んだ詩(笑)もありましたが、何に価値を見出すのかという基準がそこにあり、価値を見つけた時や物を特別なものと感じる。
つまり、特別と日常がまずあるのではなく、自分の考えや感じ方があってその区別を付けるのが「あるべき姿」だろうと思うわけです。

考えや感じ方が変われば日常が特別になり、特別が日常にもなる。
その価値を決めるのはカレンダーや流行ではなく自分の考えや感じ方であるという、自分が決めた特別なことがあって、だから記念日やイベントがあるというのはとても素晴らしいことに思えます。
そしてもちろん、世間的に特別なことではないけれど自分の中では大切にしていることを日常の中で持ち、それを実践できていればなお素晴らしい。


理想として大切にしたいのは、「こんにちわ」と「ありがとう」なんですよね。
日常の中で当たり前のように使う言葉ですが、当たり前だからこそ形式的に使いがちだし、そこに意味や気持ちを込めることが意外と難しかったりもする。
相手に伝えたい気持ちを持って使わなければちゃんと届かない言葉。
それが挨拶と感謝ではないかと思います。
言葉と、それを使うタイミングや状況をちゃんと大切にしなければならない。
当たり前のことを当たり前のように言葉で相手に伝えるという、その難しさを大切に出来れば立派なものだと思うんですよ。
まっ、理想としての話なので、私に実践できているということではないのですが。(苦笑)

お祭りやイベントが多く、ワイワイやるのが楽しいSLという傾向はあるような気がします。
それはそれで楽しいですし、重さにもめげずに楽しもう・楽しませようという人たちの気持ちにも好感が持てます。
季節やイベントに合わせたアイテムも、うちで用意したりしていますし。(笑)
特別に振り回されるのではなく、特別な時に何もしないことを引け目に感じることもなく、自分の決めた価値の”特別”を大切にしたい。
そこに記念日やイベントが重なるのであれば、忌避する理由はないでしょう。
決められた特別に従うだけでない、自分の価値観をSLでもRLでも大切に出来る、そんな姿勢でありたいものです。



まあ~イベントが苦手な言い訳を屁理屈で武装しているような気が、自分でしなくもないのが困ったものですな。
楽しいし面白いんだけど同調機能の付いたアイテムにはどこか迷うところがあるし、『一体感の押し付けがましさ』がとにかく苦手だという、身勝手で天の邪鬼な人間の独り言でもあります。
話半分にどうぞ。