2009年04月15日
ふと思ったんですが。
SLには電柱が無いけど、だからといって別に街並みが美しいわけではないですよね。
個人的には、電柱・電線の地下埋設は都市部の美観上の効果はあるだろうと思っています。
トータルコストで採算(初期工事と管理・維持費などの総合的なもの)が合えば積極的に進めるべきだろうと考えますが、電柱・電線があるから街並みが汚い・・・という意見だけで都市の美観が決まるわけではないのも確かなんでしょう。
この電柱に対する考え方には、地下埋設が主流とされる欧米先進諸国の都市景観があり、外国は綺麗だけど日本は汚いという認識が意見の背景にはあると思われます。
SLの中で考えてみれば、しかし電柱がいらないし無い(一部のSIMでは演出として存在してますが)という条件は同じはずなので、海外SIMも日本系SIMも同じ条件。
SIMやSIM群丸ごとの景観という点ではやはり海外SIMのほうが整った街並みも多いという感覚がなきにしもあらずですが、メインランドの景観を考えてみれば個々人の自由裁量による街並み(街並みとして抽出し得る対象をどう定義するかにもよるかな??)ではそれほど美観に優れた場所が多いとも感じません。
全体的には、欧米の都市部に都市景観の重要性や意味を肯定的に理解している人たちが多い(RL)ことは間違いないと思うのですが、無計画で自分の自由になる場所を得た時(SL)まで景観保護のために自分の主張を抑える人々ばかりではないということではないかとも思えるわけです。
RLの都市景観における抑圧がSLの中で発散されていると見れば、むろんこの考え方は成立しません(海外の場合そのずれが大きく、日本の場合ズレが少ないので比較自体が無理?)けども。
ようするに、「電柱や電線があるなど都市景観に無自覚な日本は街並みが美しくない」という意見はインワールドの中でも成り立つ意見なんだろうか、ということをふと考えてみたわけですな。
計画された都市部が綺麗になるのはRLでもSLでも同じでしょう。
そもそもこの場合の綺麗さとは、整えられた美しさ、調和や整合性・統一感といった部分からくる基準が前提となりそうなのですけども。
電柱や電線もある意味では機能的な必然の結果ではあるので、必要性から導かれた整合性がそこにあると主張できなくはないと思いますが、大体においては街並みの統一感を壊す無計画な存在の象徴として扱われるわけですよね。電柱や電線は。
で、その場所が持つ物理的な必然性もなく、伝統や文化の固定性もなく、さらには事前の計画もない仮想空間の個人的領域の集合体において比較した時、海外の住人と日本の住人の作りだす景観にどれほどの違いが生まれているのだろうか・・・。
実証的な根拠はないのですが、感覚的にはそれに違いはないんじゃないか?と思います。
せっかく(?笑)なんだし、誰かSLの中でそうした都市計画上の仮説を立てて実証的なレポートとしてまとめてみてくれないかなぁ。
RLで都市計画の実験をするのは大変でしょうけども、SLの中ならそれも可能。
シュミレーターとしての使い方としては、なかなか面白そうだという気がしますけどね。
そういえば、ログインのトップ画面が最近は綺麗になっています。
日本でSLがブームだった頃、ログイン画面がショボイから興味が持てないという意見をたまに見かけました。
じゃあそれが綺麗になった今、みんながトップ画面を見てSLに興味を持つのだろうかと考えれば、むろんそんなこともないでしょうね。
なんか、電柱の話もそれに近い感じがするわけですよ。
物事のある一点が全体の評価を左右するほどのモノなのかどうか、そこが何か腑に落ちないことがあるという話。
単純に考えれば成り立っていそうで感覚的にも理解できそうなんだけど、でもやっぱりそれが本当かどうかはよく分からない。
世の中にはそんなことは沢山あるから、そもそもそんな程度のことならばそれ自体にたいした意味はないのかもしれません。
だけれども、RLで言われているようなことをふとSLの中に当てはめようと考えてみた時、逆にSLの中で言われているようなことをRLで考えてみた時、そういう考え方の切り替えをやってみる機会が生まれるということそのものに意味があるのではないだろうか?
RLの常識もSLの常識も、どちらにせよ分かったようで分からないことが多いし、もっともらしく見えてもそれが決定的な因果関係だと限らないことは多い。
ただ、RLとSLという境界線がそうしたことを「より気がつきやすく」させてくれるのではないか。
だから何?
って話でもあるんで、ただ思ったことのメモですけど。(苦笑)
個人的には、電柱・電線の地下埋設は都市部の美観上の効果はあるだろうと思っています。
トータルコストで採算(初期工事と管理・維持費などの総合的なもの)が合えば積極的に進めるべきだろうと考えますが、電柱・電線があるから街並みが汚い・・・という意見だけで都市の美観が決まるわけではないのも確かなんでしょう。
この電柱に対する考え方には、地下埋設が主流とされる欧米先進諸国の都市景観があり、外国は綺麗だけど日本は汚いという認識が意見の背景にはあると思われます。
SLの中で考えてみれば、しかし電柱がいらないし無い(一部のSIMでは演出として存在してますが)という条件は同じはずなので、海外SIMも日本系SIMも同じ条件。
SIMやSIM群丸ごとの景観という点ではやはり海外SIMのほうが整った街並みも多いという感覚がなきにしもあらずですが、メインランドの景観を考えてみれば個々人の自由裁量による街並み(街並みとして抽出し得る対象をどう定義するかにもよるかな??)ではそれほど美観に優れた場所が多いとも感じません。
全体的には、欧米の都市部に都市景観の重要性や意味を肯定的に理解している人たちが多い(RL)ことは間違いないと思うのですが、無計画で自分の自由になる場所を得た時(SL)まで景観保護のために自分の主張を抑える人々ばかりではないということではないかとも思えるわけです。
RLの都市景観における抑圧がSLの中で発散されていると見れば、むろんこの考え方は成立しません(海外の場合そのずれが大きく、日本の場合ズレが少ないので比較自体が無理?)けども。
ようするに、「電柱や電線があるなど都市景観に無自覚な日本は街並みが美しくない」という意見はインワールドの中でも成り立つ意見なんだろうか、ということをふと考えてみたわけですな。
計画された都市部が綺麗になるのはRLでもSLでも同じでしょう。
そもそもこの場合の綺麗さとは、整えられた美しさ、調和や整合性・統一感といった部分からくる基準が前提となりそうなのですけども。
電柱や電線もある意味では機能的な必然の結果ではあるので、必要性から導かれた整合性がそこにあると主張できなくはないと思いますが、大体においては街並みの統一感を壊す無計画な存在の象徴として扱われるわけですよね。電柱や電線は。
で、その場所が持つ物理的な必然性もなく、伝統や文化の固定性もなく、さらには事前の計画もない仮想空間の個人的領域の集合体において比較した時、海外の住人と日本の住人の作りだす景観にどれほどの違いが生まれているのだろうか・・・。
実証的な根拠はないのですが、感覚的にはそれに違いはないんじゃないか?と思います。
せっかく(?笑)なんだし、誰かSLの中でそうした都市計画上の仮説を立てて実証的なレポートとしてまとめてみてくれないかなぁ。
RLで都市計画の実験をするのは大変でしょうけども、SLの中ならそれも可能。
シュミレーターとしての使い方としては、なかなか面白そうだという気がしますけどね。
そういえば、ログインのトップ画面が最近は綺麗になっています。
日本でSLがブームだった頃、ログイン画面がショボイから興味が持てないという意見をたまに見かけました。
じゃあそれが綺麗になった今、みんながトップ画面を見てSLに興味を持つのだろうかと考えれば、むろんそんなこともないでしょうね。
なんか、電柱の話もそれに近い感じがするわけですよ。
物事のある一点が全体の評価を左右するほどのモノなのかどうか、そこが何か腑に落ちないことがあるという話。
単純に考えれば成り立っていそうで感覚的にも理解できそうなんだけど、でもやっぱりそれが本当かどうかはよく分からない。
世の中にはそんなことは沢山あるから、そもそもそんな程度のことならばそれ自体にたいした意味はないのかもしれません。
だけれども、RLで言われているようなことをふとSLの中に当てはめようと考えてみた時、逆にSLの中で言われているようなことをRLで考えてみた時、そういう考え方の切り替えをやってみる機会が生まれるということそのものに意味があるのではないだろうか?
RLの常識もSLの常識も、どちらにせよ分かったようで分からないことが多いし、もっともらしく見えてもそれが決定的な因果関係だと限らないことは多い。
ただ、RLとSLという境界線がそうしたことを「より気がつきやすく」させてくれるのではないか。
だから何?
って話でもあるんで、ただ思ったことのメモですけど。(苦笑)
2008年12月01日
変わる世界と変える世界。
人は主観でもって世界を見るので、「世界が変わる」ということは「自分が変わること」と同じ意味。
とはいえ、RLの社会では無数の他者によって強固に固定された認識(常識?)が存在しているため、自分一人の変化で与えられる影響は、客観的には世界自体を変えるほどにはならないのが現実でしょう。
自分の認識を変えることで「自分から見た世界を変える」ことはできても、昨日までとは違う自分が見ている世界を同じように人にも見てもらうのが難しい。
しかし、そもそも自己の認識に比重の置かれている仮想世界ではどうでしょうか。
自分が変わることで世界を変えられるとして、その変えた後の世界を知ってもらうことはRLでのそれよりは容易いはずです。
世界を見るための自分の認識、価値観を提案して他者に伝えることができれば、人はその価値観で今までとは違う世界を見ることができる・・・はず。(笑)
そう考えると、SLをやっていて世界(インワールド)が変わるのを待つよりは、「自分で世界の変え方を提案できる楽しみ」をSLの楽しみ方とすることは一つのやり方だろうと思います。
SLでは、クリエーターが”楽しみ”を生み出す重要な役割の一部を担っているでしょう。
誰も何も作らなければSLは無の世界です。
誰かが何かを作り、そして作り続けているから、SLではその作られたモノを使った楽しみがある。
ところが、一年以上前の日本で大きく取り上げられていた時期、まだまだ物が無かった時代に比べると、今は物自体ならばかなり豊富になってきています。
作れば一気に広まる・・・というほど物に餓えた状況ではなくなりつつあるのは、物を作っている人ならば感じていることではないでしょうか。(既に新しく参加されたクリエーターさんには、そうした変化の実感さえ持てないかも)
つまり、そうした物の形や種類を増やす作り方だけではなく、楽しみ方を提案する形を物にするという「価値観を物に落とし込む作り方」が大切なのかもしれないと思うわけです。
例えば、レンダリングコストの話があります。
これからのパーティーシーズンにおいて、すごくお洒落で楽しそうな服や飾りを身につけてパーティーに出席しても、異様に高すぎるコストではそれを他の人にうまく見てもらうことができないかもしれません。
綺麗な服でも、それを綺麗に見てもらえなければ、パーティーのような場所では意味のない着こなしであると言えるでしょう。
そこで、価値観を変えてみます。
同一の中程度のレンダリングコストを意識して、その範囲の中で最も綺麗に見える服を作ってみるという風に、とか。
じゃあどこ辺りのレンダリングコストが適切なのか?は難しいので、ここでは抽象的に言葉だけで扱わせてもらいますが・・・。
要するに、綺麗な服を作るという「物だけを作る価値観」から、綺麗に見てもらえる服を作るという「見せ方の提案の価値観」に切り替えた発想があってもいいわけです。
例えば例えば、レンダリングコストの範囲を設定した、クラス別のデザインコンテストなんかもっとあってもいいですよね。
個人的には服や装飾品をほとんど作らないのですが、食べ物アイテムを作る時にはそれが会話のきっかけとなるような状況を想定して作るようにしていますし、あるいは食べ物ではなく「食べ物のある場面」そのものを楽しんでもらえることができればいいと考えています。
上手く出来てるかどうかはともかく~ですけど。(苦笑)
自分が好きなモノを作るのもSLでの物作りですが、価値観の提案として物を作ることも楽しみやすい世界ではないかと思います。
SLが終わったという意見は当然のように目にしますし、そもそも話題にさえならない状況もあります。
しかし、まさに「終わった」という認識でSLを見ている価値観を嘆くよりは、終わっていないことを自分の中で人に伝えるための物作りが生まれてきてもいい。
人が減る土地が減る(とはいえ、土地当たりの適切な人口という観点から見れば、減った増えたは総合的に見ないと分からないはずですが)という前に、自分が提案した価値観でSLを魅力的にしてみせると、そこまで豪語できるような人がもう少し現われてもいいんじゃないかと思う今日この頃。
この考えの最大の欠点は、私自身がそこまで豪語できるわけではない~ということなんですが。(笑)
☆参考
『楽しみ方を楽しむこと。』
http://zusi.slmame.com/e421668.html
とはいえ、RLの社会では無数の他者によって強固に固定された認識(常識?)が存在しているため、自分一人の変化で与えられる影響は、客観的には世界自体を変えるほどにはならないのが現実でしょう。
自分の認識を変えることで「自分から見た世界を変える」ことはできても、昨日までとは違う自分が見ている世界を同じように人にも見てもらうのが難しい。
しかし、そもそも自己の認識に比重の置かれている仮想世界ではどうでしょうか。
自分が変わることで世界を変えられるとして、その変えた後の世界を知ってもらうことはRLでのそれよりは容易いはずです。
世界を見るための自分の認識、価値観を提案して他者に伝えることができれば、人はその価値観で今までとは違う世界を見ることができる・・・はず。(笑)
そう考えると、SLをやっていて世界(インワールド)が変わるのを待つよりは、「自分で世界の変え方を提案できる楽しみ」をSLの楽しみ方とすることは一つのやり方だろうと思います。
SLでは、クリエーターが”楽しみ”を生み出す重要な役割の一部を担っているでしょう。
誰も何も作らなければSLは無の世界です。
誰かが何かを作り、そして作り続けているから、SLではその作られたモノを使った楽しみがある。
ところが、一年以上前の日本で大きく取り上げられていた時期、まだまだ物が無かった時代に比べると、今は物自体ならばかなり豊富になってきています。
作れば一気に広まる・・・というほど物に餓えた状況ではなくなりつつあるのは、物を作っている人ならば感じていることではないでしょうか。(既に新しく参加されたクリエーターさんには、そうした変化の実感さえ持てないかも)
つまり、そうした物の形や種類を増やす作り方だけではなく、楽しみ方を提案する形を物にするという「価値観を物に落とし込む作り方」が大切なのかもしれないと思うわけです。
例えば、レンダリングコストの話があります。
これからのパーティーシーズンにおいて、すごくお洒落で楽しそうな服や飾りを身につけてパーティーに出席しても、異様に高すぎるコストではそれを他の人にうまく見てもらうことができないかもしれません。
綺麗な服でも、それを綺麗に見てもらえなければ、パーティーのような場所では意味のない着こなしであると言えるでしょう。
そこで、価値観を変えてみます。
同一の中程度のレンダリングコストを意識して、その範囲の中で最も綺麗に見える服を作ってみるという風に、とか。
じゃあどこ辺りのレンダリングコストが適切なのか?は難しいので、ここでは抽象的に言葉だけで扱わせてもらいますが・・・。
要するに、綺麗な服を作るという「物だけを作る価値観」から、綺麗に見てもらえる服を作るという「見せ方の提案の価値観」に切り替えた発想があってもいいわけです。
例えば例えば、レンダリングコストの範囲を設定した、クラス別のデザインコンテストなんかもっとあってもいいですよね。
個人的には服や装飾品をほとんど作らないのですが、食べ物アイテムを作る時にはそれが会話のきっかけとなるような状況を想定して作るようにしていますし、あるいは食べ物ではなく「食べ物のある場面」そのものを楽しんでもらえることができればいいと考えています。
上手く出来てるかどうかはともかく~ですけど。(苦笑)
自分が好きなモノを作るのもSLでの物作りですが、価値観の提案として物を作ることも楽しみやすい世界ではないかと思います。
SLが終わったという意見は当然のように目にしますし、そもそも話題にさえならない状況もあります。
しかし、まさに「終わった」という認識でSLを見ている価値観を嘆くよりは、終わっていないことを自分の中で人に伝えるための物作りが生まれてきてもいい。
人が減る土地が減る(とはいえ、土地当たりの適切な人口という観点から見れば、減った増えたは総合的に見ないと分からないはずですが)という前に、自分が提案した価値観でSLを魅力的にしてみせると、そこまで豪語できるような人がもう少し現われてもいいんじゃないかと思う今日この頃。
この考えの最大の欠点は、私自身がそこまで豪語できるわけではない~ということなんですが。(笑)
☆参考
『楽しみ方を楽しむこと。』
http://zusi.slmame.com/e421668.html
2008年11月06日
楽しみ方を楽しむこと。
子供の遊び方に変化が出てきたというのは、一昔前からの定番の切り口でしょうか。
原っぱの減少やお受験などに代表される幼年教育とそのビジネスの影響も言われるわけですが、アニメやゲームなどの市場が確立されたことも大きいと思います。
要するに、子供同士が集まって年齢に応じた知恵や体力などによる遊び方を自分たちで見つけたりしなくなっている。
少人数で遊ぶなら少人数で遊べるおもちゃを身の回りの材料で作ったり、大勢で遊ぶためのルールを少人数用に変えたり。
逆に大人数で遊ぶ場合には、公平なルールをちゃんと確認したり、時にはハンディキャップに応じた修正をしたり。
与えられた遊び方に縛られるだけでない、自分たちで考えて遊ぶということが下手になってきているのではないかということです。
セカンドライフにキラーコンテンツが無い、ということを「だからダメだ」とする考え方があります。
しかし、それをどんな楽しみ方も出来る可能性と見れば、キラーコンテンツにだけ頼るのではない強みもまたあるでしょう。
日本でSLが大々的に取り上げられたのは過去の話。
儲かるという宣伝文句や有名になるという上昇志向を満たすためのステータスを求める姿勢が多く見られた一年前でしたが、SLは終わった終わったと否定的に言う意見の多くは、「そういう楽しみ方には限界がある」という現状認識に過ぎないような気がします。
仮想世界の中で会社をつくって成功することや、デザイナーとして世界的な名声や評価を得ること。
それは確かにSLの中にある一つの成功であり、目標とするべき希な成功例として魅力的であると思います。
しかし、本当にそれだけがSLなんだろうか・・・と考えるのが、今とこれからに大切なことではないでしょうか。
ソラマメを情報発信の源泉として、フリービーを探し求めて楽しむという楽しみ方もあります。
最近であれば、同じフリーアイテムを手に入れるのでも、トレハン(トレジャーハンティング)と呼ばれる宝探し的なアイテムの「手に入れ方を楽しむこと」も定着したでしょう。
フリーアイテムがSLの中から消えることはないはずですが、それを手に入れ楽しむという楽しみ方にはこれからも変化があるのかもしれません。
そして実は、そういう変化を楽しむことこそが、SLを楽しむということの根本にあるような気がするわけです。
成功体験に依存したが故の失敗、いわゆる思考の硬直化というやつがあります。
SLがキラーコンテンツを持つ絶対的な基準を楽しむ世界であったとすれば、その基準を私たち住人が変更したり創造したりすることは難しいはず。
ですが、SLの中での成功や楽しみ方は、すでに出現した以上のものが生み出せないと決まったわけではありません。
じゃんけんのようなシンプルなモノでも、おいもん勝ち(多いもの勝ち)と呼ばれる大人数で同時に同じものを出した人が勝つ遊び方だってある。
鬼ごっこや缶蹴りならば、場所や状況に応じた遊び方が常に変わる。
与えられた遊び方をルールに従ってやる、どこでも誰もが同じ遊び方をしなければ成立しない・・・というわけではないのが、セカンドライフだと私は思います。
最近では、アカウントを作っておいたけどすぐに止めた人がもう一度インしてみたり、一度はある程度の成果を得た人がRLの事情や人間関係などを原因として去った後にまた戻ってきたり、そういう話を聞くことが珍しくありません。
一つのレールに乗って成功していくこと、レベル上げをしてゲームの頂点に立つことだけがSLの楽しみ方であるとすれば、そうした人たちは明らかに不利なはずです。
しかし、今のSLの中で不足していると感じる「楽しみ方そのものを生みだしたり変えていこう」とする動きを担う人たちとしてみれば、その可能性に期待できるように思います。
つまり、鬼ごっこが上手い人だけが勝ちという世界ではないので、縄跳びを楽しむなら全く違う楽しみ方ができる。
しかも一度はSLの中である程度の経験をした人ならば、その経験を活かすことだってできるわけです。
一年前に比べて、SLの中にあるアイテムは飛躍的に増え、何でもあるように思える状況があります。
ところが、そのアイテムをどのように使って楽しむのかという、遊び方までがすべて出尽くしたようには思えません。
見たことも聞いたこともない遊び方を生み出す過程で、全く新たなアイテムが登場してくる可能性もあるのはあるはず。
流行ったコーギーなども、SLの中にあるペットの楽しみ方という点で新しい提案があったからこそ「うけた」のではないでしょうか。
犬や猫の形はあったけど、コーギーの楽しみ方はコーギーが出るまで皆が知らなかった。(知ってしまうと、同じ物は作れなくなりますが)
あるいはそうした大きく目に見えるものではなく、小さなバーやカフェなどをマイペースに楽しむ自分の楽しみ方をバランスよく調整する、そんな「自分らしい楽しみ方を作る」ことも人それぞれの中にある可能性だと思います。
人によっては閉塞感を持ってしまうSLの現状かもしれませんが、考え方を少し考えてみれば、社会の閉塞感を打ち破ることを自分のアイデアやアイテムによって挑戦できるとすれば、これはなかなか壮大な楽しみ方と言えるでしょう。
たとえ成功しなくとも、打ち破ろうとする過程を楽しむことができればそれも一つの楽しみ方、なわけですし。
今ある状況、与えられた環境がダメだから自分の楽しみ方が見つからないことも、もちろん場合によってはあると思います。
SLを楽しむこと以外をやってはならない・・・わけがないです。(笑)
しかししかし、自分たちで考えて楽しみ方を見つけていくことのできる場所としてみれば、まったくその可能性のない場所だとは思えません。
SLが大人のするゲームだというならば、子供に負けない「遊び方を考える力」を私たちが示す必要があるでしょう。
とある居酒屋に出入りし、とあるお店の立ち上げに関わって、またとある建物に自分なりの考えを出してみた最近の自分の経験を振り返りつつ、そう思います。
どんなに小さなことでも、新しいものを生み出せる可能性があることの楽しみというのは魅力的です。
しかも、それが世界(SL)を変えることにつながる可能性も、ほんのわずかにならば常にある。
あなたも、もっともっと楽しみ方を楽しんでみませんか?
原っぱの減少やお受験などに代表される幼年教育とそのビジネスの影響も言われるわけですが、アニメやゲームなどの市場が確立されたことも大きいと思います。
要するに、子供同士が集まって年齢に応じた知恵や体力などによる遊び方を自分たちで見つけたりしなくなっている。
少人数で遊ぶなら少人数で遊べるおもちゃを身の回りの材料で作ったり、大勢で遊ぶためのルールを少人数用に変えたり。
逆に大人数で遊ぶ場合には、公平なルールをちゃんと確認したり、時にはハンディキャップに応じた修正をしたり。
与えられた遊び方に縛られるだけでない、自分たちで考えて遊ぶということが下手になってきているのではないかということです。
セカンドライフにキラーコンテンツが無い、ということを「だからダメだ」とする考え方があります。
しかし、それをどんな楽しみ方も出来る可能性と見れば、キラーコンテンツにだけ頼るのではない強みもまたあるでしょう。
日本でSLが大々的に取り上げられたのは過去の話。
儲かるという宣伝文句や有名になるという上昇志向を満たすためのステータスを求める姿勢が多く見られた一年前でしたが、SLは終わった終わったと否定的に言う意見の多くは、「そういう楽しみ方には限界がある」という現状認識に過ぎないような気がします。
仮想世界の中で会社をつくって成功することや、デザイナーとして世界的な名声や評価を得ること。
それは確かにSLの中にある一つの成功であり、目標とするべき希な成功例として魅力的であると思います。
しかし、本当にそれだけがSLなんだろうか・・・と考えるのが、今とこれからに大切なことではないでしょうか。
ソラマメを情報発信の源泉として、フリービーを探し求めて楽しむという楽しみ方もあります。
最近であれば、同じフリーアイテムを手に入れるのでも、トレハン(トレジャーハンティング)と呼ばれる宝探し的なアイテムの「手に入れ方を楽しむこと」も定着したでしょう。
フリーアイテムがSLの中から消えることはないはずですが、それを手に入れ楽しむという楽しみ方にはこれからも変化があるのかもしれません。
そして実は、そういう変化を楽しむことこそが、SLを楽しむということの根本にあるような気がするわけです。
成功体験に依存したが故の失敗、いわゆる思考の硬直化というやつがあります。
SLがキラーコンテンツを持つ絶対的な基準を楽しむ世界であったとすれば、その基準を私たち住人が変更したり創造したりすることは難しいはず。
ですが、SLの中での成功や楽しみ方は、すでに出現した以上のものが生み出せないと決まったわけではありません。
じゃんけんのようなシンプルなモノでも、おいもん勝ち(多いもの勝ち)と呼ばれる大人数で同時に同じものを出した人が勝つ遊び方だってある。
鬼ごっこや缶蹴りならば、場所や状況に応じた遊び方が常に変わる。
与えられた遊び方をルールに従ってやる、どこでも誰もが同じ遊び方をしなければ成立しない・・・というわけではないのが、セカンドライフだと私は思います。
最近では、アカウントを作っておいたけどすぐに止めた人がもう一度インしてみたり、一度はある程度の成果を得た人がRLの事情や人間関係などを原因として去った後にまた戻ってきたり、そういう話を聞くことが珍しくありません。
一つのレールに乗って成功していくこと、レベル上げをしてゲームの頂点に立つことだけがSLの楽しみ方であるとすれば、そうした人たちは明らかに不利なはずです。
しかし、今のSLの中で不足していると感じる「楽しみ方そのものを生みだしたり変えていこう」とする動きを担う人たちとしてみれば、その可能性に期待できるように思います。
つまり、鬼ごっこが上手い人だけが勝ちという世界ではないので、縄跳びを楽しむなら全く違う楽しみ方ができる。
しかも一度はSLの中である程度の経験をした人ならば、その経験を活かすことだってできるわけです。
一年前に比べて、SLの中にあるアイテムは飛躍的に増え、何でもあるように思える状況があります。
ところが、そのアイテムをどのように使って楽しむのかという、遊び方までがすべて出尽くしたようには思えません。
見たことも聞いたこともない遊び方を生み出す過程で、全く新たなアイテムが登場してくる可能性もあるのはあるはず。
流行ったコーギーなども、SLの中にあるペットの楽しみ方という点で新しい提案があったからこそ「うけた」のではないでしょうか。
犬や猫の形はあったけど、コーギーの楽しみ方はコーギーが出るまで皆が知らなかった。(知ってしまうと、同じ物は作れなくなりますが)
あるいはそうした大きく目に見えるものではなく、小さなバーやカフェなどをマイペースに楽しむ自分の楽しみ方をバランスよく調整する、そんな「自分らしい楽しみ方を作る」ことも人それぞれの中にある可能性だと思います。
人によっては閉塞感を持ってしまうSLの現状かもしれませんが、考え方を少し考えてみれば、社会の閉塞感を打ち破ることを自分のアイデアやアイテムによって挑戦できるとすれば、これはなかなか壮大な楽しみ方と言えるでしょう。
たとえ成功しなくとも、打ち破ろうとする過程を楽しむことができればそれも一つの楽しみ方、なわけですし。
今ある状況、与えられた環境がダメだから自分の楽しみ方が見つからないことも、もちろん場合によってはあると思います。
SLを楽しむこと以外をやってはならない・・・わけがないです。(笑)
しかししかし、自分たちで考えて楽しみ方を見つけていくことのできる場所としてみれば、まったくその可能性のない場所だとは思えません。
SLが大人のするゲームだというならば、子供に負けない「遊び方を考える力」を私たちが示す必要があるでしょう。
とある居酒屋に出入りし、とあるお店の立ち上げに関わって、またとある建物に自分なりの考えを出してみた最近の自分の経験を振り返りつつ、そう思います。
どんなに小さなことでも、新しいものを生み出せる可能性があることの楽しみというのは魅力的です。
しかも、それが世界(SL)を変えることにつながる可能性も、ほんのわずかにならば常にある。
あなたも、もっともっと楽しみ方を楽しんでみませんか?
2008年09月19日
著名有名、そして虚名?
ネット上で有名になることは、いつでも誰にでも起こりうることで、それが端的には祭りや炎上ということでしょう。
その裏を返して有名になるために炎上を仕掛ける方法論もありふれたもので、「すべてはネタ」という極論も、ネット上での情報の価値については一面の真理だろうと思っています。(ネタという名の情報価値の均一化)
つまり、情報は情報でしかなく、それを判断する主体によってこそ情報の価値は決められる。
ネタと思う人にとってはネタだし、有益と思えば有益。
情報の価値は情報そのものではなく、情報を処理する側によって決められるというわけ。
そこで”有名”であるかどうかは、そこから発信される情報に何ら本質的な意味を付加するものではない・・・。
それがネット(ネット社会)ではないかと、ふと考えることがあるわけです。
SLやソラマメをコミュニティであると考えた時、自分が活動すればコミュニティの中で有名になっていくことはあると思います。
多くの場合で有名になることを目的化することは少なく、何かやるために手段としての知名度が必要とされるのでしょう。
物を作って人に見てもらおうと思えば、まずは知ってもらう必要があります。
無名のお店で出された新商品よりも、有名なお店で出された新商品のほうが早く人に知ってもらえることに何の不思議もありません。
コンサートやDJなどの音楽活動やモデルなど、アバターの活動やアバターそのものの知名度が目的に近い場合もあります。
自分がやっている事を知ってもらうため、その結果としての「有名」。
攻撃されたりして有名に祭りあげられたりすることがネット上にはあるわけですが、一定程度の知名度があれば、それはまた炎上を誘発しやすいことにもなるのでしょう。
いまさら祭りや炎上についての個人的見解を書き散らかしても、さして珍しくもないです。
大切なのは、私たちはネットやSLに接し続ける限り、常にそうしたリスクと隣り合わせに存在しているということの自覚なのではないかと思います。
本来的には、自分の知らないどこかで自分が攻撃対象となっていることなどはRLの日常にもありふれたことで、ネット社会特有の危険を誇張することには疑問がありますが、それはまあそれとして。(苦笑)
SLでは、自分の好きな活動ができるわけです。
そして、その活動のために頑張れば頑張るほど有名になってゆき、うまく成功すれば成功するほどまた有名となる。
しかし、その有名さは常にリスクを伴うものであり、有名であることの大きさとリスクの大きさも比例してゆかざるを得ない気がします。
その中で一番怖いと思うのは、自分自身がやっているつもりの活動と他者から見た時の活動のズレ、ではないかと思います。
情報発信は、一義的には発信する側の意図を伝えるものですが、当事者の手を離れて独り歩きしてしまえば最初の発信者の意図など関係なく走りだすことがあります。
SLでの活動も似たような面があり、それに著名度が触媒となった時、思わぬ影響と余波を生みだして収拾がつかなくなることは十分に考えられます。
しかしだからといって、結果としての有名になるべきではないとか、頑張って活動するべきではないとか、その結論もどこか違和感があります。
出来るだけ最初に自分の自己像をちゃんと思い描いておいて、実像に見合った等身大の活動と知名度を獲得していくことは決して不可能ではないはずですし、非難されるべきでもないと思います。
仮想世界の中での活動に実像を思い描くというのも皮肉に満ちたものですが、仮想世界の可能性を信じる気持ちと自己の万能感を過剰に同一視させて肥大化してしまえば、爆発的な成功はあっという間の失敗へとすり変わるだけに思えます。
SLは狭い世界で、ソラマメはさらに狭いです。
だからその狭い中での有名人には意味がない・・・とする考え方もありますが、最初に考えた様に、そもそも有名であることだけの意味にたいした価値はないのかもしれません。
自分自身が、まず自分でコントロールできる範囲の実像を思い描き、虚名との区別に自覚的であること。
それが一番大切なのではないかと、そう思います。
もはや無名とはいえないであろう私なので、”有名”になる前に少し自戒しておきたいところです。
私の場合は「アバターとしての私」ではなく、ただ作品や商品として認知してもらえればいいので、その意味では有名になることを目的化してしまうことは考えたことがないつもりですが・・・。
たまに有名人扱いされてしまうと、チャットを打つ手に嫌な汗を感じてしまうような錯覚に陥る昨今です。
この感覚が薄れてしまった時、私はもはや”私”ではなくなるのでしょうか。
仮想世界に作り上げられた虚名に自分が殺される瞬間を、ふと恐怖する。
そんな誇大妄想を書いて締めておきましょうか。(笑)
その裏を返して有名になるために炎上を仕掛ける方法論もありふれたもので、「すべてはネタ」という極論も、ネット上での情報の価値については一面の真理だろうと思っています。(ネタという名の情報価値の均一化)
つまり、情報は情報でしかなく、それを判断する主体によってこそ情報の価値は決められる。
ネタと思う人にとってはネタだし、有益と思えば有益。
情報の価値は情報そのものではなく、情報を処理する側によって決められるというわけ。
そこで”有名”であるかどうかは、そこから発信される情報に何ら本質的な意味を付加するものではない・・・。
それがネット(ネット社会)ではないかと、ふと考えることがあるわけです。
SLやソラマメをコミュニティであると考えた時、自分が活動すればコミュニティの中で有名になっていくことはあると思います。
多くの場合で有名になることを目的化することは少なく、何かやるために手段としての知名度が必要とされるのでしょう。
物を作って人に見てもらおうと思えば、まずは知ってもらう必要があります。
無名のお店で出された新商品よりも、有名なお店で出された新商品のほうが早く人に知ってもらえることに何の不思議もありません。
コンサートやDJなどの音楽活動やモデルなど、アバターの活動やアバターそのものの知名度が目的に近い場合もあります。
自分がやっている事を知ってもらうため、その結果としての「有名」。
攻撃されたりして有名に祭りあげられたりすることがネット上にはあるわけですが、一定程度の知名度があれば、それはまた炎上を誘発しやすいことにもなるのでしょう。
いまさら祭りや炎上についての個人的見解を書き散らかしても、さして珍しくもないです。
大切なのは、私たちはネットやSLに接し続ける限り、常にそうしたリスクと隣り合わせに存在しているということの自覚なのではないかと思います。
本来的には、自分の知らないどこかで自分が攻撃対象となっていることなどはRLの日常にもありふれたことで、ネット社会特有の危険を誇張することには疑問がありますが、それはまあそれとして。(苦笑)
SLでは、自分の好きな活動ができるわけです。
そして、その活動のために頑張れば頑張るほど有名になってゆき、うまく成功すれば成功するほどまた有名となる。
しかし、その有名さは常にリスクを伴うものであり、有名であることの大きさとリスクの大きさも比例してゆかざるを得ない気がします。
その中で一番怖いと思うのは、自分自身がやっているつもりの活動と他者から見た時の活動のズレ、ではないかと思います。
情報発信は、一義的には発信する側の意図を伝えるものですが、当事者の手を離れて独り歩きしてしまえば最初の発信者の意図など関係なく走りだすことがあります。
SLでの活動も似たような面があり、それに著名度が触媒となった時、思わぬ影響と余波を生みだして収拾がつかなくなることは十分に考えられます。
しかしだからといって、結果としての有名になるべきではないとか、頑張って活動するべきではないとか、その結論もどこか違和感があります。
出来るだけ最初に自分の自己像をちゃんと思い描いておいて、実像に見合った等身大の活動と知名度を獲得していくことは決して不可能ではないはずですし、非難されるべきでもないと思います。
仮想世界の中での活動に実像を思い描くというのも皮肉に満ちたものですが、仮想世界の可能性を信じる気持ちと自己の万能感を過剰に同一視させて肥大化してしまえば、爆発的な成功はあっという間の失敗へとすり変わるだけに思えます。
SLは狭い世界で、ソラマメはさらに狭いです。
だからその狭い中での有名人には意味がない・・・とする考え方もありますが、最初に考えた様に、そもそも有名であることだけの意味にたいした価値はないのかもしれません。
自分自身が、まず自分でコントロールできる範囲の実像を思い描き、虚名との区別に自覚的であること。
それが一番大切なのではないかと、そう思います。
もはや無名とはいえないであろう私なので、”有名”になる前に少し自戒しておきたいところです。
私の場合は「アバターとしての私」ではなく、ただ作品や商品として認知してもらえればいいので、その意味では有名になることを目的化してしまうことは考えたことがないつもりですが・・・。
たまに有名人扱いされてしまうと、チャットを打つ手に嫌な汗を感じてしまうような錯覚に陥る昨今です。
この感覚が薄れてしまった時、私はもはや”私”ではなくなるのでしょうか。
仮想世界に作り上げられた虚名に自分が殺される瞬間を、ふと恐怖する。
そんな誇大妄想を書いて締めておきましょうか。(笑)
2008年09月08日
縁。
SLはコミュニケーションだ・・・と言ってしまうと、チャットが上手くなければいけないように聞こえてしまうでしょうか。
パフォーマンスや創作による意志伝達や自己表現もコミュニケーションの手段に含めれば、それほど窮屈なものではありません。
例えば、物作りなどはされていないものの、カフェやバーなどを回って「常連さん」を楽しむのが上手い知り合いの方がいます。
買い物やファンションを楽しみ続ける自己表現なども、私には到底真似ができないわけです。
そこに個性があれば、どんなスタイルであれ確立された個としてSLの中では存在でき、そうした存在は存在同士をつなげる縁を生むものでしょう。
ずいぶん久しぶりで、連絡を取っていなかった方とお会いする機会がありました。
インワールドでは疎遠であっても、ブログなどを通じて存在を知っていればどこかでつながっている感じがするものです。
しかし、それはそれとして、やはりインワールドで直接会えると何となく嬉しい。
普段いつも会っている人と会う楽しさとは、なにかが違う。
あぁちゃんとつながっている部分が少しでもあるんだ・・・という嬉しさと、連絡をしてくださるという手間への感謝かな。
もっと色々と言葉に置き換えることを試してもいいのですが、何を話すわけでもなく近況報告だけの話題であったとしても、そこに何かの価値を実感できるということはありがたいことです。
他者が存在しなければ自分を認識する必要が無くなり、結果的に自己の存在も失う。
SLでの存在は、しかしアカウントの解約やインしなくなるなどの事情により、それほど強固なものではありません。
その裏を返すと、自己の存在もまた常に頼りない感じをともなう・・・と言えるでしょうか。
仲間意識に依存してしまい、その仲間内の空気や連帯のために自分を見失ってしまうような本末転倒は警戒するべきだと思いますが、あなたがいて私がいるという「人と人の縁を感じること」はとても大切な気がします。
自分が自分であるためにも、大切。
コミュニケーションをとるためには、自分と他者が必要でしょう。
内なる自分との対話や第三者的な目線での自己批評などとは別に、あるいはそういうことを可能にさせるための「自分」という認識を確定するためにも、人は他者を必要とするのかもしれません。
SLも、一時期ピークに達した日本人口が減少傾向となり、世界的にも決して拡大傾向にあるとは言えない中。
しかし、それでも他者との接点となる世界としては、まだまだ魅力的なものがあると思います。
ソラマメなどを見ていると、一時期去っていた人がまた戻ってくるということが、わずかながらもあるようです。
世界があり人がいれば、そこには縁が生まれる。
縁があれば、いったん世界を去ったとしても、戻ってくればまた出会えることもある。
同じ世界に存在することの意味(コミュニケーションをとる者同士?)とは、つまりそういうことでしょうから。
SLで別れ際の挨拶によく使う言葉は、本当なんだろうと思います。
『ではまた。』
今はいない人もこれから会う人も、縁があればよろしく。(笑)
と、ここでいう世界とはSLのことですが、本質的にはRLでの世界という意味でもあるべきなんでしょうね。
仮想世界は、それを仮想するための現実世界がなくては存在しないわけで。
つまり、仮想世界で生まれた縁も、その同じ意味で「RLに存在している縁」であるということ・・・か。
良くも悪くも。
パフォーマンスや創作による意志伝達や自己表現もコミュニケーションの手段に含めれば、それほど窮屈なものではありません。
例えば、物作りなどはされていないものの、カフェやバーなどを回って「常連さん」を楽しむのが上手い知り合いの方がいます。
買い物やファンションを楽しみ続ける自己表現なども、私には到底真似ができないわけです。
そこに個性があれば、どんなスタイルであれ確立された個としてSLの中では存在でき、そうした存在は存在同士をつなげる縁を生むものでしょう。
ずいぶん久しぶりで、連絡を取っていなかった方とお会いする機会がありました。
インワールドでは疎遠であっても、ブログなどを通じて存在を知っていればどこかでつながっている感じがするものです。
しかし、それはそれとして、やはりインワールドで直接会えると何となく嬉しい。
普段いつも会っている人と会う楽しさとは、なにかが違う。
あぁちゃんとつながっている部分が少しでもあるんだ・・・という嬉しさと、連絡をしてくださるという手間への感謝かな。
もっと色々と言葉に置き換えることを試してもいいのですが、何を話すわけでもなく近況報告だけの話題であったとしても、そこに何かの価値を実感できるということはありがたいことです。
他者が存在しなければ自分を認識する必要が無くなり、結果的に自己の存在も失う。
SLでの存在は、しかしアカウントの解約やインしなくなるなどの事情により、それほど強固なものではありません。
その裏を返すと、自己の存在もまた常に頼りない感じをともなう・・・と言えるでしょうか。
仲間意識に依存してしまい、その仲間内の空気や連帯のために自分を見失ってしまうような本末転倒は警戒するべきだと思いますが、あなたがいて私がいるという「人と人の縁を感じること」はとても大切な気がします。
自分が自分であるためにも、大切。
コミュニケーションをとるためには、自分と他者が必要でしょう。
内なる自分との対話や第三者的な目線での自己批評などとは別に、あるいはそういうことを可能にさせるための「自分」という認識を確定するためにも、人は他者を必要とするのかもしれません。
SLも、一時期ピークに達した日本人口が減少傾向となり、世界的にも決して拡大傾向にあるとは言えない中。
しかし、それでも他者との接点となる世界としては、まだまだ魅力的なものがあると思います。
ソラマメなどを見ていると、一時期去っていた人がまた戻ってくるということが、わずかながらもあるようです。
世界があり人がいれば、そこには縁が生まれる。
縁があれば、いったん世界を去ったとしても、戻ってくればまた出会えることもある。
同じ世界に存在することの意味(コミュニケーションをとる者同士?)とは、つまりそういうことでしょうから。
SLで別れ際の挨拶によく使う言葉は、本当なんだろうと思います。
『ではまた。』
今はいない人もこれから会う人も、縁があればよろしく。(笑)
と、ここでいう世界とはSLのことですが、本質的にはRLでの世界という意味でもあるべきなんでしょうね。
仮想世界は、それを仮想するための現実世界がなくては存在しないわけで。
つまり、仮想世界で生まれた縁も、その同じ意味で「RLに存在している縁」であるということ・・・か。
良くも悪くも。
2008年08月30日
結局ブランド??
『ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e337977.html
『続ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e343672.html
いちおう話としては続きなので、興味のある人はどうぞ。
以下の文章は、『続ブランド??』のコメント欄にもらった、ぽっぷさんの書き込みへのレスを兼ねています。
>ブランド
まあウェキペディアで意味を確認したのは、ブランドの正しい意味や定義というほどではなく、あくまで基本的な認識でのズレを最小限にするためです。
今回の話のポイントの一つは、ブランドというものが物やサービスなどの商品(商品価値)を代表するものなのか、それともクリエーターという制作者を代表(象徴)するものなのかということでしょう。
そして、ウェキペディアにもあったように、これはブランドというものが消費者からの理解と認識がなければ成立しないものであると考えた場合、SLの中では比較的後者の意味で捉えられる現状があるのではないか?という理解で私とぽっぷさんの考えは一致していそうです。
>あまりにも近くにいすぎてしまい、”物”を飛ばしてしまい、ブランド=人と感じてしまうことが多いだけなのかもしれません。
RLでデザイナーやクリエーターと日常的に交流する機会はないですからね。
SLでは多くの人がオーナーやクリエーターなどの肩書をもっていて、SLの中で著名な人と交流があることは多いです。
もちろんながら、ぽっぷさんご自身もまた大規模モールのオーナーとして、無名の人ではないわけですし。(笑)
Snowland mall=ぽっぷさん、というイメージがあるわけですよ。私には。
つまり、ブランドという言葉は同じであっても、「RLでの意味」と「SLでの意味」とでは異なると考えてもいいのではないか、ということです。
そしてそれは、人を中心として個人の影響力と存在で成立しているようなSLの特性が影響している部分だという気がします。
で、RLと同じではないという点を否定的に思うか肯定的にとらえるかは解釈次第で、今のSLが未成熟なものであると考えれば、答えの出ない主観的な意見表明を越えられないものでしょう。
平たく言いかえると、だから所詮はごっこ遊びでSLには本物のブランドなどないんだという意見も、だからこそSLにおけるブランドは自己実現や自己表現に直結する純粋なものであるという意見も、ともに主張し得るという。
(SLの中でもRLに近いような、集団制作の体制をとってブランドをイメージとして商品価値に結び付ける展開に成功している、有名ブランドがあるのは事実でしょうけど)
世界が変われば言葉が変わる、という大上段な話もできそうですね。(笑)
属する社会・環境や価値観が変化すれば、言葉によって定義されうる内容もまた変化するのが当然なのかもしれません。
個人的には、そうした変化を体験し実感することもまた仮想世界に関わることの面白さの一つではないかと思います。
>物作りに関しても、マーケティングかけてやってる人は少ないと思いますし、作りたいものを作って売っているって言うところが大半ではないかと推測します。
ブランドとは少し話が変わりますが、この辺りは難しいですね。
作りたいモノが作れるから楽しいしやる気も出る、という考えもあるでしょう。
また、多くの人が求めているモノを平均的に詰め込もうとして、逆に全ての人に不満が残るモノを作ってしまうリスクもありそうです。(翻訳機能の付いたHUD系で、たまにそんな意見がありますよね)
「お客さんの目線」というものへの考え方なのかもしれませんが、自分の好きなモノや楽しいモノを作るんだけど、使ってもらう人のこと(特に操作性や利便性)も考えるという辺りが落とし所でしょうか。
SLの中で一番潜在的な需要のある情報サービスは、マーケティングリサーチかもしれないです。(笑)
正解を出すという話ではなく、何かを考えるきっかけや視点の整理になればこのやり取りにも意味があると思います。
書くことは考えることで整理することなので、未熟ながらもこういう機会があればまた書いてみたいですね。
駄文に、最後までお付き合いいただいた人すべてに感謝を。(礼)
☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)
Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27
Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27
http://zusi.slmame.com/e337977.html
『続ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e343672.html
いちおう話としては続きなので、興味のある人はどうぞ。
以下の文章は、『続ブランド??』のコメント欄にもらった、ぽっぷさんの書き込みへのレスを兼ねています。
>ブランド
まあウェキペディアで意味を確認したのは、ブランドの正しい意味や定義というほどではなく、あくまで基本的な認識でのズレを最小限にするためです。
今回の話のポイントの一つは、ブランドというものが物やサービスなどの商品(商品価値)を代表するものなのか、それともクリエーターという制作者を代表(象徴)するものなのかということでしょう。
そして、ウェキペディアにもあったように、これはブランドというものが消費者からの理解と認識がなければ成立しないものであると考えた場合、SLの中では比較的後者の意味で捉えられる現状があるのではないか?という理解で私とぽっぷさんの考えは一致していそうです。
>あまりにも近くにいすぎてしまい、”物”を飛ばしてしまい、ブランド=人と感じてしまうことが多いだけなのかもしれません。
RLでデザイナーやクリエーターと日常的に交流する機会はないですからね。
SLでは多くの人がオーナーやクリエーターなどの肩書をもっていて、SLの中で著名な人と交流があることは多いです。
もちろんながら、ぽっぷさんご自身もまた大規模モールのオーナーとして、無名の人ではないわけですし。(笑)
Snowland mall=ぽっぷさん、というイメージがあるわけですよ。私には。
つまり、ブランドという言葉は同じであっても、「RLでの意味」と「SLでの意味」とでは異なると考えてもいいのではないか、ということです。
そしてそれは、人を中心として個人の影響力と存在で成立しているようなSLの特性が影響している部分だという気がします。
で、RLと同じではないという点を否定的に思うか肯定的にとらえるかは解釈次第で、今のSLが未成熟なものであると考えれば、答えの出ない主観的な意見表明を越えられないものでしょう。
平たく言いかえると、だから所詮はごっこ遊びでSLには本物のブランドなどないんだという意見も、だからこそSLにおけるブランドは自己実現や自己表現に直結する純粋なものであるという意見も、ともに主張し得るという。
(SLの中でもRLに近いような、集団制作の体制をとってブランドをイメージとして商品価値に結び付ける展開に成功している、有名ブランドがあるのは事実でしょうけど)
世界が変われば言葉が変わる、という大上段な話もできそうですね。(笑)
属する社会・環境や価値観が変化すれば、言葉によって定義されうる内容もまた変化するのが当然なのかもしれません。
個人的には、そうした変化を体験し実感することもまた仮想世界に関わることの面白さの一つではないかと思います。
>物作りに関しても、マーケティングかけてやってる人は少ないと思いますし、作りたいものを作って売っているって言うところが大半ではないかと推測します。
ブランドとは少し話が変わりますが、この辺りは難しいですね。
作りたいモノが作れるから楽しいしやる気も出る、という考えもあるでしょう。
また、多くの人が求めているモノを平均的に詰め込もうとして、逆に全ての人に不満が残るモノを作ってしまうリスクもありそうです。(翻訳機能の付いたHUD系で、たまにそんな意見がありますよね)
「お客さんの目線」というものへの考え方なのかもしれませんが、自分の好きなモノや楽しいモノを作るんだけど、使ってもらう人のこと(特に操作性や利便性)も考えるという辺りが落とし所でしょうか。
SLの中で一番潜在的な需要のある情報サービスは、マーケティングリサーチかもしれないです。(笑)
正解を出すという話ではなく、何かを考えるきっかけや視点の整理になればこのやり取りにも意味があると思います。
書くことは考えることで整理することなので、未熟ながらもこういう機会があればまた書いてみたいですね。
駄文に、最後までお付き合いいただいた人すべてに感謝を。(礼)
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2008年08月22日
続ブランド??
もう一度ウェキペディアを読み返すと、『ブランド(英:brand)とは、ある商品・サービスを象徴するもののこと。ある商品・サービスを、別の商品・サービスから区別するための商品名称やシンボルマーク、模様だけでなく、消費者が商品・サービスを見た際に想起させる周辺イメージ総体もブランドと呼ぶ。』とありますね。
また、『文字や図形で具体的に表現された商標もブランドの一つである。狭義には、ファッション分野での高級品イメージのついた一部メーカー及び商品群を指す(「ブランド物」)。』ともあります。
ざっくりと言ってしまうと、「他と区別するための記号性」や「物に付随するイメージ」をブランドと呼ぶと考えてもいいでしょうか。

(こんな話を書くきっかけの一つ/屋外展示場に実物があります)
『ブランド??』でぽっぷさんから頂いたコメントはなかなか面白く、特に『Z’s CA=Zusi=食べもの』という個所は興味深いと思います。
上記で再確認した定義によると、本来的なブランドやブランドイメージというものは「物」に従属するべきでしょう。
しかし、Z’s CAというブランドは、私という人を間に挟んでから商品にたどり着いています。
ぽっぷさんがどこまで意図的に書いたかを深読みするつもりはなく、もちろん揚げ足取りで話を進めようというつもりもないのですが、ブランドが物ではなく人を指すか人に直結するという図式がSLの中にある、とは言えそうな気がします。
これは単純な実例ですが、その時々に認知されている商品によって私の認識のされ方も変わるわけです。
ミカンの人であったり、鍋の人、かき氷の人とか。(笑)
SLの中ではクリエーターと商品は密接な関係にあって、たとえコラボによる商品であっても、商品への評価は人へと直結する形で表現されることがあります。
その多くの場合が社交辞令やその場を盛り上げるための話題にすぎないとしても、ブランドを誉めるよりはクリエーター個人を誉めることはよく体験するのではないでしょうか。
SLのクリエーターの多くが個人展開で、その商品もクリエーター個人へ直結していることが多いからだという背景もあるはずです。
それを自己表現としての創作性や作家性の一形態と認識するのか、あるいはブランド化に至れない未熟なごっこ遊びでしかないと分析するのか、そこは考え方なのだろうと思いますが・・・。
SLの中にも、集団体制による創作活動を行っていて、ブランドとしての括りで「ブランドと物が結びついている」例もあります。
私でも知っているいくつかのブランドはそうなのですが、また規模的にもSLの中で成功者の部類に入ると思われるのですが、それらは決して主流であるとは言えないような気がします。(少なくとも日本の中では)
SLは人本位主義で成立していると思います。
インワールドでの活動はコミュニケーションが多くの比重を占め、企業SIMやカフェには担当者が配置されていないことが批判(HPに担当者が常駐していないからと文句は言わないはず)の対象となり、各種のパフォーマンスや創作活動は個人への批評へと直結もする。
良くも悪くも個人が持つネットワークや人間関係でイベントなどの成否も左右されるという側面があり、あるいは人への反発や攻撃などが時に陰湿な部分を垣間見せもするのでしょう。
人がいて、ブランドがあって物がある。
というよりはむしろ、人=ブランド(イメージや評判含む)の一体性があって、そこに物があるという図式。
まず人が認知されて物があり、物が認知されれば人となる。
そう考えると、虹野さんの猫足堂の話にも理解がつきます。
和物と洋物を区別するブランド分けも、同じ虹野さんが作るものであれば結果的には一つのブランドとして「虹野さんという認識」のもとに集約されてしまう。
これにはもう一つ、SLでの「創作に必要な要素」の問題も影響しているでしょう。
オブジェクト・テクスチャー・アニメ・スプリクトの四つが代表的な要素となるはずですが、四つのうちの複数を得意としていれば、同じ要素の中で別の物を作ることに大きなハードルはありません。
スキンを作るのも服を作るのも、同じように一定程度のテクスチャー(画像ソフト)の技術があれば可能でしょう。
乗り物のスプリクトを自由に扱える知識があれば、建築物やセキュリティーのスプリクトを扱うことも不可能ではありません。
もちろん、一定程度の基礎知識は必要と思われますしセンスの問題もあるので、いい服を作るからいい建築を建てれるかどうか、あるいは食べ物を作れるからいい乗り物を作れるかどうかは別のことです。
ただ確実なのは、基本的な技術が一定レベルに達してしまえば、SLの中にあるもののいくつかをジャンルを超えて制作することは可能であるという点です。
ソラマメを気ままに眺めていても、何屋さんか分からないね・・・と自ら冗談混じりに書いている人を見つけることは、そうは難しくないはず。
得意先の流通経路の開拓や各種の申請業務(行政手続)などの複雑なことがないため、保健所も建築課の審査もないまま食べ物も高層建築だって建てられるのがSLですからね。
つまり、SLの中のブランドにおいてはその認識は商品よりも人に属しがちになる図式があり、人(クリエーター)が制作する分野の垣根が低いということも確かであるとすれば、商品を分けることとブランドを分けることとの一体性は比較的緩やかに存在せざるを得ないのではないか?
私が私として作る以上、ブランドを分けることをもって積極的な意味付けと展開が行われなければ、その効果や価値はさして見出せない。
・・・って、ちょっと結論からのこじつけだという気がしなくもないですが。(苦笑)
これをわざわざ書いたポイントとしては、SLのブランドは人に付くものではないか?という点と、クリエーターが作る物のジャンルに技術的な制約は決して高くないだろうという点ですよね。
まあ、看板(ブランド)見て物を作る前にお客を見ろよ、という意見もあるでしょうし。
長文駄文に最後までお付き合いいただいた奇特な人には、感謝を。(笑)
☆参考
『ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e337977.html
☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)
Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27
Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27
また、『文字や図形で具体的に表現された商標もブランドの一つである。狭義には、ファッション分野での高級品イメージのついた一部メーカー及び商品群を指す(「ブランド物」)。』ともあります。
ざっくりと言ってしまうと、「他と区別するための記号性」や「物に付随するイメージ」をブランドと呼ぶと考えてもいいでしょうか。

(こんな話を書くきっかけの一つ/屋外展示場に実物があります)
『ブランド??』でぽっぷさんから頂いたコメントはなかなか面白く、特に『Z’s CA=Zusi=食べもの』という個所は興味深いと思います。
上記で再確認した定義によると、本来的なブランドやブランドイメージというものは「物」に従属するべきでしょう。
しかし、Z’s CAというブランドは、私という人を間に挟んでから商品にたどり着いています。
ぽっぷさんがどこまで意図的に書いたかを深読みするつもりはなく、もちろん揚げ足取りで話を進めようというつもりもないのですが、ブランドが物ではなく人を指すか人に直結するという図式がSLの中にある、とは言えそうな気がします。
これは単純な実例ですが、その時々に認知されている商品によって私の認識のされ方も変わるわけです。
ミカンの人であったり、鍋の人、かき氷の人とか。(笑)
SLの中ではクリエーターと商品は密接な関係にあって、たとえコラボによる商品であっても、商品への評価は人へと直結する形で表現されることがあります。
その多くの場合が社交辞令やその場を盛り上げるための話題にすぎないとしても、ブランドを誉めるよりはクリエーター個人を誉めることはよく体験するのではないでしょうか。
SLのクリエーターの多くが個人展開で、その商品もクリエーター個人へ直結していることが多いからだという背景もあるはずです。
それを自己表現としての創作性や作家性の一形態と認識するのか、あるいはブランド化に至れない未熟なごっこ遊びでしかないと分析するのか、そこは考え方なのだろうと思いますが・・・。
SLの中にも、集団体制による創作活動を行っていて、ブランドとしての括りで「ブランドと物が結びついている」例もあります。
私でも知っているいくつかのブランドはそうなのですが、また規模的にもSLの中で成功者の部類に入ると思われるのですが、それらは決して主流であるとは言えないような気がします。(少なくとも日本の中では)
SLは人本位主義で成立していると思います。
インワールドでの活動はコミュニケーションが多くの比重を占め、企業SIMやカフェには担当者が配置されていないことが批判(HPに担当者が常駐していないからと文句は言わないはず)の対象となり、各種のパフォーマンスや創作活動は個人への批評へと直結もする。
良くも悪くも個人が持つネットワークや人間関係でイベントなどの成否も左右されるという側面があり、あるいは人への反発や攻撃などが時に陰湿な部分を垣間見せもするのでしょう。
人がいて、ブランドがあって物がある。
というよりはむしろ、人=ブランド(イメージや評判含む)の一体性があって、そこに物があるという図式。
まず人が認知されて物があり、物が認知されれば人となる。
そう考えると、虹野さんの猫足堂の話にも理解がつきます。
和物と洋物を区別するブランド分けも、同じ虹野さんが作るものであれば結果的には一つのブランドとして「虹野さんという認識」のもとに集約されてしまう。
これにはもう一つ、SLでの「創作に必要な要素」の問題も影響しているでしょう。
オブジェクト・テクスチャー・アニメ・スプリクトの四つが代表的な要素となるはずですが、四つのうちの複数を得意としていれば、同じ要素の中で別の物を作ることに大きなハードルはありません。
スキンを作るのも服を作るのも、同じように一定程度のテクスチャー(画像ソフト)の技術があれば可能でしょう。
乗り物のスプリクトを自由に扱える知識があれば、建築物やセキュリティーのスプリクトを扱うことも不可能ではありません。
もちろん、一定程度の基礎知識は必要と思われますしセンスの問題もあるので、いい服を作るからいい建築を建てれるかどうか、あるいは食べ物を作れるからいい乗り物を作れるかどうかは別のことです。
ただ確実なのは、基本的な技術が一定レベルに達してしまえば、SLの中にあるもののいくつかをジャンルを超えて制作することは可能であるという点です。
ソラマメを気ままに眺めていても、何屋さんか分からないね・・・と自ら冗談混じりに書いている人を見つけることは、そうは難しくないはず。
得意先の流通経路の開拓や各種の申請業務(行政手続)などの複雑なことがないため、保健所も建築課の審査もないまま食べ物も高層建築だって建てられるのがSLですからね。
つまり、SLの中のブランドにおいてはその認識は商品よりも人に属しがちになる図式があり、人(クリエーター)が制作する分野の垣根が低いということも確かであるとすれば、商品を分けることとブランドを分けることとの一体性は比較的緩やかに存在せざるを得ないのではないか?
私が私として作る以上、ブランドを分けることをもって積極的な意味付けと展開が行われなければ、その効果や価値はさして見出せない。
・・・って、ちょっと結論からのこじつけだという気がしなくもないですが。(苦笑)
これをわざわざ書いたポイントとしては、SLのブランドは人に付くものではないか?という点と、クリエーターが作る物のジャンルに技術的な制約は決して高くないだろうという点ですよね。
まあ、看板(ブランド)見て物を作る前にお客を見ろよ、という意見もあるでしょうし。
長文駄文に最後までお付き合いいただいた奇特な人には、感謝を。(笑)
☆参考
『ブランド??』
http://zusi.slmame.com/e337977.html
☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)
Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27
Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27
2008年08月16日
ブランド??
『ブランド』(ウィキペディア)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89

最初に自分のブランド名というか、ロゴを考える時、当時作っていた寿司やたこ焼きなどにこだわらずに将来的には建築なども扱うつもりで、出来るだけ「特化しないブランドのイメージ」を想定したつもりでした。
そのため、ロゴデザインについては食べ物を扱ってる感じがしないという指摘があり、それはそれで意図したことなのですが・・・。
先日、初めて商品化としてのスカイボックスを紹介させてもらったように、今後は家具や建築の分野もSLの中で扱いだそうと考えているわけです。
しかし、「Z’s CA」はもう食べ物のイメージが定着しているので別のブランドを立ち上げて区別したらどうか?と、そんなご意見をもらってビックリしてしまいました。
しかも、別の方にその話をしたところ、私がビックリしたことに驚かれてしまったという。(爆笑)
「Z’s CA」は「Zusi's Creation Atelier」の略になっています。
英語表記として適切かどうかは自信がありませんが、要するに「私がSLの中で作る物全て」を扱うための意図を込めてつけた名前です。『Zusiの創作工房』といった感じですね。
最初から建築系を扱うのは既定路線でしたし、食べ物以外にもどこでもチェアー(装着タイプの椅子)やコラボの誕生石ピアスも、現に扱っています。
売り上げの主力が食べ物であることには間違いないのですが、食べ物だけか?というと、それは違うという自己認識があるんですなぁ。
一部の方に言っていただいている「フードクリエーター」という呼称も、気が付いている人は気が付いていると思いますが、自称として使ったことはないんですよ。
あくまでも便宜的に、紹介する時に使う呼び名として受け入れさせてもらっているという感じです。
ある方に言わせると、物を作ってるというよりはアニメを専門にしていると思った・・・とのことですし、人によっても感じ方や受け止め方が異なっているという話でもある。(笑)

で、何をぐだぐだ書いてるのかというと、ブランド分けのためにもう一つ別ブランドを作るかどうか、そこを迷ってるという話なんです。
自己認識と定着している認識とのずれが大きければ、そこは率直に受け入れてブランド分けをする必要がありそうです。
反面、まずブランドありきで自意識過剰に展開ばかりを急いだとしても、中身が伴わなければ無用な認識の混乱を招くだけに終わるでしょう。
SLの中で活躍されている有名なブランドはいくつもあると思います。
そうした有名ブランドの数々には遠く及ばないにしても、さすがにもう、自分自身のブランドを無名のものだと考えることには無理がありそうな気もします。
Z’s CAを知らない人はまだまだ多いわけですが、それにしても知ってる人には一定のブランドイメージがあるのではないか?と思えるわけで、「知名度」と「既にあるイメージ」と「自分の認識」の三つのバランスをどう考えるべきか・・・。
自分の考え方に沿った上で、きちんと作りたい物を作っていく。
その中で何らかの価値や意味を提案し、それを共有してもらうことができれば一番理想的です。
その基本的なスタンスにおいて、作る物の分野・ジャンルとブランドイメージを強固に結びつけて考えるつもりはあまりないです。
考え込んでしまうのは、ブランドを分けていくということ「そのもの」もまた自分のスタンスの表明に他ならず、それが今後商品を作っていく上でも意識・無意識に大きな影響が出てしまうものであるという気がするからですね。
これを書きながら考えていると、やっぱり分けないまま続けていこうかなぁ~という気分になってきます。
今作っているソファーの商品化までには、何らかの答えを出しておきましょうか。
ここに書くかどうかは別にしても。(汗)
これからブランドを立ち上げる人、別のブランドに分けようかと考えている人など、何らかのご参考にでもどうぞ。
☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)
Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27
Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89


最初に自分のブランド名というか、ロゴを考える時、当時作っていた寿司やたこ焼きなどにこだわらずに将来的には建築なども扱うつもりで、出来るだけ「特化しないブランドのイメージ」を想定したつもりでした。
そのため、ロゴデザインについては食べ物を扱ってる感じがしないという指摘があり、それはそれで意図したことなのですが・・・。
先日、初めて商品化としてのスカイボックスを紹介させてもらったように、今後は家具や建築の分野もSLの中で扱いだそうと考えているわけです。
しかし、「Z’s CA」はもう食べ物のイメージが定着しているので別のブランドを立ち上げて区別したらどうか?と、そんなご意見をもらってビックリしてしまいました。
しかも、別の方にその話をしたところ、私がビックリしたことに驚かれてしまったという。(爆笑)
「Z’s CA」は「Zusi's Creation Atelier」の略になっています。
英語表記として適切かどうかは自信がありませんが、要するに「私がSLの中で作る物全て」を扱うための意図を込めてつけた名前です。『Zusiの創作工房』といった感じですね。
最初から建築系を扱うのは既定路線でしたし、食べ物以外にもどこでもチェアー(装着タイプの椅子)やコラボの誕生石ピアスも、現に扱っています。
売り上げの主力が食べ物であることには間違いないのですが、食べ物だけか?というと、それは違うという自己認識があるんですなぁ。
一部の方に言っていただいている「フードクリエーター」という呼称も、気が付いている人は気が付いていると思いますが、自称として使ったことはないんですよ。
あくまでも便宜的に、紹介する時に使う呼び名として受け入れさせてもらっているという感じです。
ある方に言わせると、物を作ってるというよりはアニメを専門にしていると思った・・・とのことですし、人によっても感じ方や受け止め方が異なっているという話でもある。(笑)



で、何をぐだぐだ書いてるのかというと、ブランド分けのためにもう一つ別ブランドを作るかどうか、そこを迷ってるという話なんです。
自己認識と定着している認識とのずれが大きければ、そこは率直に受け入れてブランド分けをする必要がありそうです。
反面、まずブランドありきで自意識過剰に展開ばかりを急いだとしても、中身が伴わなければ無用な認識の混乱を招くだけに終わるでしょう。
SLの中で活躍されている有名なブランドはいくつもあると思います。
そうした有名ブランドの数々には遠く及ばないにしても、さすがにもう、自分自身のブランドを無名のものだと考えることには無理がありそうな気もします。
Z’s CAを知らない人はまだまだ多いわけですが、それにしても知ってる人には一定のブランドイメージがあるのではないか?と思えるわけで、「知名度」と「既にあるイメージ」と「自分の認識」の三つのバランスをどう考えるべきか・・・。
自分の考え方に沿った上で、きちんと作りたい物を作っていく。
その中で何らかの価値や意味を提案し、それを共有してもらうことができれば一番理想的です。
その基本的なスタンスにおいて、作る物の分野・ジャンルとブランドイメージを強固に結びつけて考えるつもりはあまりないです。
考え込んでしまうのは、ブランドを分けていくということ「そのもの」もまた自分のスタンスの表明に他ならず、それが今後商品を作っていく上でも意識・無意識に大きな影響が出てしまうものであるという気がするからですね。
これを書きながら考えていると、やっぱり分けないまま続けていこうかなぁ~という気分になってきます。
今作っているソファーの商品化までには、何らかの答えを出しておきましょうか。
ここに書くかどうかは別にしても。(汗)
これからブランドを立ち上げる人、別のブランドに分けようかと考えている人など、何らかのご参考にでもどうぞ。
☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)
Z's CA (Shinsaibashi shop)
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/220/83/27
Z's CA (Shinsaibashi shop2) ←こちらは屋外展示場です
http://slurl.com/secondlife/Shinsaibashi/237/40/27
2008年08月09日
幸せとボイチャとSL。
結婚式と披露宴に、インワールドで初めて参加させてもらいました。
披露宴でのウェディングケーキを作らせてもらった(ケーキ屋さんとのコラボです)関係で、披露宴では裏方側の動きでしたが・・・。
とはいえ、柄でもなく少々「幸せ」に当てられてしまいましたね。(苦笑)
話は変わるのですが、先日ふと考えさせられることがありました。
私はパソコンの周辺機器や周りの環境からボイスチャット(ボイチャ)はやりませんし、また興味もないのですが。
ある場所でいつもの感覚のままチャットで会話していたところ、次々に人がやって来たんですね。
それはよくあることで何の注意もしていなかったのですが、どうにも会話の流れが妙なんです。
ほとんどの人は無言なのに、先ほどまで私と会話していた人の返事や言葉だけは見える。
あーチャットがうまく表示されていないのだなと思い、ちょうど別の用事もあったので移動してリログしたわけです。
しかし、どうにも気になるのでチャットのログやミュート設定などを一通りチャックした後、もしかしたらボイスチャットを使っていたのではないか?と思い当たったという。
案の定、後からIMで確認の連絡を入れてみると、後から来た人のほとんどがボイスチャットを使っていたということでした。
重さ対策も考えて、私は日ごろ使わないような余分な機能はすべて止めた環境設定で使っているために、ボイチャのオンオフが表示される以前の状態になっていたわけです。
VWBCの収録に関わった時もそうでしたが、SLもボイチャを当然のように使っている人と、私やその周りで普段コミュニケションをしているようなテキストチャットメインの人がいるんですよね。
シンプルに「一つの機能を使うのも使わないのも自由だ」という話で考えてもいいのですが、自分の声を直接使うかどうかというのは、もしかするとSLに対しての考え方にも大きく影響しているような部分も含まれるのではないだろうか?と。
そしてそれは、SLという世界が異なる考えやスタンスで参加することのできる仮想世界として、一定の選択肢の幅とキャパシティを持っていることの証拠でもあるんだろうなと、そんなことをふと思いました。
統計的なものは知りませんが、パートナーや恋愛関係にある人はボイスチャットを使ったり、あるいは携帯電話などでもやり取りをすることが少なくないとも聞いた覚えがあります。
私たちはごく当たり前のように「自分のやり方」でSLをプレーしているわけですが、そうした自分のスタイルを決めることのできる自由度という点においては、たしかにSLというのは幅広いような気がします。
そんな幅広いそれぞれのスタイルの中で自分が関わっている身の回りの人たちとの接点というものを考えてみると、そこに「似たスタイル」を見つけることになるのではないか?
ファッションやアバターの形態そのもの、あるいは日々の言動だけでなく、『インワールドにインする設定』でさえ自己表現であると思えば、これは何となく奥深いものを感じてしまうのですが・・・さて。
まあ、その人の個性や特徴・事情は目に見えていない些細なところにも表れるものであり、SLとRLの接点がそこにはあるんでしょうね。
・・・と、強引にまとめなければ終われない話だねぇ。(爆笑)
披露宴でのウェディングケーキを作らせてもらった(ケーキ屋さんとのコラボです)関係で、披露宴では裏方側の動きでしたが・・・。
とはいえ、柄でもなく少々「幸せ」に当てられてしまいましたね。(苦笑)
話は変わるのですが、先日ふと考えさせられることがありました。
私はパソコンの周辺機器や周りの環境からボイスチャット(ボイチャ)はやりませんし、また興味もないのですが。
ある場所でいつもの感覚のままチャットで会話していたところ、次々に人がやって来たんですね。
それはよくあることで何の注意もしていなかったのですが、どうにも会話の流れが妙なんです。
ほとんどの人は無言なのに、先ほどまで私と会話していた人の返事や言葉だけは見える。
あーチャットがうまく表示されていないのだなと思い、ちょうど別の用事もあったので移動してリログしたわけです。
しかし、どうにも気になるのでチャットのログやミュート設定などを一通りチャックした後、もしかしたらボイスチャットを使っていたのではないか?と思い当たったという。
案の定、後からIMで確認の連絡を入れてみると、後から来た人のほとんどがボイスチャットを使っていたということでした。
重さ対策も考えて、私は日ごろ使わないような余分な機能はすべて止めた環境設定で使っているために、ボイチャのオンオフが表示される以前の状態になっていたわけです。
VWBCの収録に関わった時もそうでしたが、SLもボイチャを当然のように使っている人と、私やその周りで普段コミュニケションをしているようなテキストチャットメインの人がいるんですよね。
シンプルに「一つの機能を使うのも使わないのも自由だ」という話で考えてもいいのですが、自分の声を直接使うかどうかというのは、もしかするとSLに対しての考え方にも大きく影響しているような部分も含まれるのではないだろうか?と。
そしてそれは、SLという世界が異なる考えやスタンスで参加することのできる仮想世界として、一定の選択肢の幅とキャパシティを持っていることの証拠でもあるんだろうなと、そんなことをふと思いました。
統計的なものは知りませんが、パートナーや恋愛関係にある人はボイスチャットを使ったり、あるいは携帯電話などでもやり取りをすることが少なくないとも聞いた覚えがあります。
私たちはごく当たり前のように「自分のやり方」でSLをプレーしているわけですが、そうした自分のスタイルを決めることのできる自由度という点においては、たしかにSLというのは幅広いような気がします。
そんな幅広いそれぞれのスタイルの中で自分が関わっている身の回りの人たちとの接点というものを考えてみると、そこに「似たスタイル」を見つけることになるのではないか?
ファッションやアバターの形態そのもの、あるいは日々の言動だけでなく、『インワールドにインする設定』でさえ自己表現であると思えば、これは何となく奥深いものを感じてしまうのですが・・・さて。
まあ、その人の個性や特徴・事情は目に見えていない些細なところにも表れるものであり、SLとRLの接点がそこにはあるんでしょうね。
・・・と、強引にまとめなければ終われない話だねぇ。(爆笑)
2008年07月25日
聞くこと。
人と話す時の割合は、自分が話すよりも相手の話を聞く割合を多くした方がいい、と言われていると思います。
ついつい自分のことばかり言いたい事や伝えたい事を一方的に言ってしまいがちですが、話すよりも聞くことで伝わるものもあると。
また実際問題として、伝えたい内容を相手に理解してもらわなければならない時、自分から説明するだけよりも相手の質問に耳を傾け的確に誤解や不明な点を補足したほうが、結果的には「よく伝わる」わけです。
SLをやっていると、何か一つのことをするためには関係者の意見調整や当事者からの確認などの様々な打ち合わせが必要になってきます。
特に「作る側」や「仕掛ける側」に回れば、それを実感する機会も無数にありますよね。
人を信頼して任せることと、ただ単に放り投げて上手くいくかどうかは運次第・・・ということの間には、相当な違いがあるでしょう。
程度の差はあれ、前者として上手く物事を進めることを考えて動こうとすれば、打ち合わせや認識の確認作業は欠かすことができません。
で、そうした実際的な会話の際に、必要と思われることを相手に伝えるために「聞く」ということを忘れがちになって、一方的に気がつくまま思いつくまま伝言ゲームをしてしまいがちではないかと思います。
他人ごとではなく、私自身が説明したり伝える必要があった機会を振り返ると、反省させられることは沢山あります。
相手側に理解の確認を求める機会をとったり、軽口を意図的に挟んで話の流れにメリハリを意識したり、必要な連絡事項を漏れなく把握しながら自分と相手の集中力や理解度などにも気配りしたいと思うのですが・・・。
むろん、それを実践することはとても難しいことです。
何を聞いていいのかもよく分からない状態を質問がないことと勘違いして、相手が理解したものと思い込んでしまったり。
軽口のつもりが話自体が脱線してしまい、自分でも悪ノリしたり。(汗)
そしてだからこそ、「聞くこと」の大切さを理想として忘れずにいるべきなのでしょう。
SLには、RLの技術や技能が反映できる一面があります。
インワールドで物事を進めるためのコミュニケーションを的確に行えるのであれば、それはRLでも通用する部分だろうと思います。
社会的な肩書き・立場というフィルターの少ないコミュニケーションであり、個々人の表現力や理解力に依存するのがSLでの打ち合わせではないかとも思います。
だとすれば、自分のそうした能力を高めたり欠点や長所を発見することに、インワールドでおこなう打ち合わせなどは有用なのかもしれません。
「ただ情報を多く伝えればいい」という単純なところから抜け出すためにも、的確に取捨選択した情報を伝え、相手の話を聞くことによって相互理解や共通認識を持てる質の高い打ち合わせを行う。
そのことが、物事をよりよく成功させるいい効果を生むのではないか。
能動的に「聞くこと」のできるコミュニケーション能力。
物を生み出すことに必要な能力の一つとして、そんなことも思う最近です。
理想は理想で、実行はそんなに簡単じゃないんですけどね。
聞くことの大切さと効果を意識して、的確な打ち合わせで効率よくいいモノを生み出す。
そういう目標そのものを頭の片隅に置いておくことは、まあ無駄ではない・・・と思いたいところです。
ただ情報を並べて伝えるだけでない、相手に理解してもらえる情報の伝え方を実践的に身に付けることのできる機会。
インワールドでの打ち合わせをそういう風に見てみれば、これはこれで案外面白いことではないでしょうか。
楽しみ方の一つだと言えば、少し言いすぎでしょうけど。
極端な話、大きな企業の新入社員の研修などでチームでも組ませて、インワールドでの商品開発やイベント実行をやらせればいいのかも。
SLの持つ教育的側面というのは、こういう部分にも隠れている?
それとも私の考えすぎか。(笑)
あ~~いくらこんなこと書いてても、実際に自分で打ち合わせに参加して物事を決めたり全体像を把握していかないと、いまSLでやってるいくつかのことは進まないという。
どれも規模的にはたいしたことをやっている訳でもないはずなのに・・・。
まぁ、打ち合わせに振り回されて物事が進まないというのが最悪なので、それだけは回避して少しでも効率よくイイ打ち合わせになるよう意識を持っておかなくちゃ、やみくもにやるだけではいかんよなぁ~というお話でした。
理解力や整理能力、コミュニケーション能力などを兼ね備えてる人がうらやましいですねぇ。(苦笑)
ついつい自分のことばかり言いたい事や伝えたい事を一方的に言ってしまいがちですが、話すよりも聞くことで伝わるものもあると。
また実際問題として、伝えたい内容を相手に理解してもらわなければならない時、自分から説明するだけよりも相手の質問に耳を傾け的確に誤解や不明な点を補足したほうが、結果的には「よく伝わる」わけです。
SLをやっていると、何か一つのことをするためには関係者の意見調整や当事者からの確認などの様々な打ち合わせが必要になってきます。
特に「作る側」や「仕掛ける側」に回れば、それを実感する機会も無数にありますよね。
人を信頼して任せることと、ただ単に放り投げて上手くいくかどうかは運次第・・・ということの間には、相当な違いがあるでしょう。
程度の差はあれ、前者として上手く物事を進めることを考えて動こうとすれば、打ち合わせや認識の確認作業は欠かすことができません。
で、そうした実際的な会話の際に、必要と思われることを相手に伝えるために「聞く」ということを忘れがちになって、一方的に気がつくまま思いつくまま伝言ゲームをしてしまいがちではないかと思います。
他人ごとではなく、私自身が説明したり伝える必要があった機会を振り返ると、反省させられることは沢山あります。
相手側に理解の確認を求める機会をとったり、軽口を意図的に挟んで話の流れにメリハリを意識したり、必要な連絡事項を漏れなく把握しながら自分と相手の集中力や理解度などにも気配りしたいと思うのですが・・・。
むろん、それを実践することはとても難しいことです。
何を聞いていいのかもよく分からない状態を質問がないことと勘違いして、相手が理解したものと思い込んでしまったり。
軽口のつもりが話自体が脱線してしまい、自分でも悪ノリしたり。(汗)
そしてだからこそ、「聞くこと」の大切さを理想として忘れずにいるべきなのでしょう。
SLには、RLの技術や技能が反映できる一面があります。
インワールドで物事を進めるためのコミュニケーションを的確に行えるのであれば、それはRLでも通用する部分だろうと思います。
社会的な肩書き・立場というフィルターの少ないコミュニケーションであり、個々人の表現力や理解力に依存するのがSLでの打ち合わせではないかとも思います。
だとすれば、自分のそうした能力を高めたり欠点や長所を発見することに、インワールドでおこなう打ち合わせなどは有用なのかもしれません。
「ただ情報を多く伝えればいい」という単純なところから抜け出すためにも、的確に取捨選択した情報を伝え、相手の話を聞くことによって相互理解や共通認識を持てる質の高い打ち合わせを行う。
そのことが、物事をよりよく成功させるいい効果を生むのではないか。
能動的に「聞くこと」のできるコミュニケーション能力。
物を生み出すことに必要な能力の一つとして、そんなことも思う最近です。
理想は理想で、実行はそんなに簡単じゃないんですけどね。
聞くことの大切さと効果を意識して、的確な打ち合わせで効率よくいいモノを生み出す。
そういう目標そのものを頭の片隅に置いておくことは、まあ無駄ではない・・・と思いたいところです。
ただ情報を並べて伝えるだけでない、相手に理解してもらえる情報の伝え方を実践的に身に付けることのできる機会。
インワールドでの打ち合わせをそういう風に見てみれば、これはこれで案外面白いことではないでしょうか。
楽しみ方の一つだと言えば、少し言いすぎでしょうけど。
極端な話、大きな企業の新入社員の研修などでチームでも組ませて、インワールドでの商品開発やイベント実行をやらせればいいのかも。
SLの持つ教育的側面というのは、こういう部分にも隠れている?
それとも私の考えすぎか。(笑)
あ~~いくらこんなこと書いてても、実際に自分で打ち合わせに参加して物事を決めたり全体像を把握していかないと、いまSLでやってるいくつかのことは進まないという。
どれも規模的にはたいしたことをやっている訳でもないはずなのに・・・。
まぁ、打ち合わせに振り回されて物事が進まないというのが最悪なので、それだけは回避して少しでも効率よくイイ打ち合わせになるよう意識を持っておかなくちゃ、やみくもにやるだけではいかんよなぁ~というお話でした。
理解力や整理能力、コミュニケーション能力などを兼ね備えてる人がうらやましいですねぇ。(苦笑)