ソラマメブログ

  

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2008年06月30日

血とし肉となり。

その糧をもって生きる。
SLで生きることは、RLでの生(せい)とかわりがないのかもしれない。
ただし、その身に取り込み咀嚼していくのは他者の夢や挫折、別れや出会いであるというだけで・・・。



仮想世界を支えているものはRLの人間です。
その思いや欲望があるからこそ「仮想」として現実に存在できている。
仮想世界を現実とは切り離された虚構であるとしか見れないことは、ある意味において、現実世界の人々が持つ思いや心を無視するに等しい気もします。
世界としての制約や形の在り方が現実とは異なり、その点で仮想の持つ非現実性は確かにあります。
しかし、だからこそ仮想と現実をつなぐのは人であり、「人の思いそのもの」が両者に共通して存在する核心なのかもしれない。

やりたい事が見つからずに去っていく人、やりたい事にくじけて去っていく人、やりたい事をRLに見つけて去っていく人。
SLを去る、もしくは長期の休養を必要とするということに、どこかしらの哀しさを感じてしまうのがSLに生きる人々の気持ちだという気がします。
それは理屈抜きの部分であり、残念な気持ちや反発し引き止めたくなる条件反射、そしていつか自分も・・・という切ない共感がそこにはあるのでしょうか。
生において死が必然であるように、SLに関わることには「去る」ということもまた、リアリティを伴うものだと実感していくのが自然な感覚にも思えます。
人の死を体験していく中で自分自身の生死観を見つめていくかのように。

では、やめてしまった何かや去っていくことは無駄なことだったのでしょうか?
古今東西、人は生まれて死に続けてきたように、SLの中でも”それ”は繰り返されていって当然のことなのかもしれません。
それが営みというものではないか、とさえ思う。
RLの私たちが先人たちの繰り返した営みの上に立つように、SLの私たちもまたあらゆる成功や挫折、出会いや別れの上に成り立ち生きている。
たとえお店が無くなり、人が去り、二度と開かれないイベントを思ったとしても、それらは「無」ではなく今を支える営みを構成している、とても大切な何かであるのかもしれない。
そして、それは「人の思い」なのではないのか??
悲喜こもごも折り重なり積み上げられた人の思いの上に立ち、今とこれからがある。
そこに自分がいる、それこそがSLの生ではないかと・・・ふと思ったり。

生きるということは生かされるということでもあり、人が一人では生きられないことと同じように、何ものとも無縁で生かされている訳もない。
去っていく人、去っていった人が残してくれたものの数々こそが、実は私たちを支えてくれる価値あるモノなのかも。
人々の思いを咀嚼して自分の思いを存在させるSL。
それはまた、自分の思いが誰かに咀嚼され誰かを生かすことにもつながる、営みの輪の中にあることも意味するのでしょうか。

去っていった人、去っていく人、これから出会うであろう人。
全ての思いの中で生かされる自分を思えば、他者への感謝ということを率直に感じざるをえません。
ありがとう。



いつか、自分が他者の糧となれるように、生を全うしたいものですな。  


Posted by Zusi at 12:50Comments(2)思った・考えた

2008年06月15日

ありがとう。

そして、お疲れ様でした。

『unOfficial Linden Blog 日本語翻訳版』
http://lindenblog.navisl.jp/

リンデン社も、メンテナンスや重度の障害情報ぐらいは日本語訳を付けておいてほしいですよね。
時間差が生まれて外部委託でもいいから、何とか対応して欲しい。
英語が世界的な公用語であることを否定しても仕方はありませんが、だからと言って、利用者へのサービス提供のスタンスとしては現状が最善を尽くされているとは言い難いのが残念です。

無償の善意や無限の協力を、すべて新技術(仮想世界の構築?)というだけで利用者に求めるのは無理があるでしょう。
コレとこれ、必要なものは必ず提供されるという安心や信頼がなければ、足らないところを補うことや我慢することにも限界が訪れます。
儲からないからやめていく・・・というような表層的な人ばかりではない点を、ちゃんと見落とさないよう理解してほしいものです。

極論すれば、操作ボタンの日本語化よりもメンテナンス情報や規約の日本語化のほうが重要だと思うよ。
素人考えだけど。(苦笑)  


Posted by Zusi at 16:56Comments(0)思った・考えた

2008年06月07日

イベント運営覚書。

小さな誕生日会などにいくつか関わってきて、SLの中でイベントのようなことをする事について思うこともあるので、少し覚書。
一般的なRLのイベントを企画運営した経験はないので、あくまでも素人の書き散らかしです。(苦笑)

SLで一番気を使うのは、システム的なトラブルの発生リスクとその対応でしょうね。
ログインできない場合はもちろん、SIM落ち・司会のフリーズ・文字化け・重すぎる挙動不審と操作困難・・・などなど。
多くの場合、運営側の人間は一人ではなく複数いるので、いくつかのフォローは可能です。
要するに時間をつないだり、最悪の場合は打ち切りを決定できる人間がメインの司会以外にもいたほうがいい。
リスクの分散ですわな。
具体的には、事前の打ち合わせで責任者を決めつつ「現場での司会と責任者を分けておく」ほうが、実はいいという。
それが無理ならば、全体の進行を把握していて信頼できるスタッフを必ず用意しておくこと。
反面、役割分担は責任の所在を不明確にして、トラブル時に船頭多く・・・のミスを引き起こしかねないので、これも事前の打ち合わせと認識の共有が前提となることは言うまでもないでしょう。

SLで十数人を超えるようなイベントや集まりを上手く取り仕切るには、事前の準備が不可欠になってきます。
段取りを決めることも必要ですが、どんなに立派な段取りでも企画した本人や数人のスタッフにしか理解できていなければ、実際の現場では段取り通りに進行することはありません。
段取り通りに進行させるには参加者の誘導や案内も大切になりますが、スタッフ側の全体進行の理解と役割分担の明確化、各責任者とその担当分野の把握、そうしたスタッフ全体を取り仕切る必要性が肝心になる気がします。
具体的には、誕生日会の場合にはイベントで使うクラッカーやケーキなどの準備が必要になると思います。
クラッカーを配置したり配るのは誰か、使い方の説明をどうするのか、ケーキの手配は誰がするのか、必要なら当日の操作は誰がおこなうのか。
個別の役割を分担させるのか兼任させるのか、まずは人の割り振りが発生するわけで、「細かい操作や手順が必要な部分」と「人を動かすことが必要な部分」の意味の違いを理解しておくことが企画運営するにあたっては大切でしょう。

SLでは、これがかなり難しいんですね。
人に役割を割り振っていく時、その人が割り当てられた操作や行動を適切に行えるかどうかの判断が必要になって、それはSL内での熟練度や人物的な信頼度に左右されてくるわけです。
身内のパーティーぐらいならば”なあなあ”と”まあまあ”で何とかなるでしょうが、大人数が参加するとそうはいかなくなってくる。
そこで必要なのが十分な事前準備であり、本番以上の『「準備を取り仕切る」ための準備』となってくるわけです。
PC環境からSLでの熟練・理解も様々な参加スタッフを上手く取り仕切るためには、本番を上手く進行させる以上に、事前説明やミーティングを管理運営する手法の意識と手間暇(この時間というのが一番貴重)がどうしても必要になってきます。
しかも、冒頭に書いたSL特有のシステム的なトラブルや、個々人のRL事情を加味したなかで準備段階を進めていかなくてはなりません。
ある意味、ぶっつけ本番でどうにかやり繰りすることよりも、事前の打ち合わせや意見取りまとめ・リハーサルなどを完全にこなすことのほうが難しいはず。

SLの特性として、土地やグループ・オブジェクトの所有者などに付随する、システム的に与えられている絶対的な権限というものがあります。
各種の設定や取り扱いについては、オーナーや権限を与えられた者にしか不可能な事柄があるわけですね。
こうした側面の把握を欠いたままでは、先述した「人への割り振り」も無理なわけですよ。
つまり、SLで一定以上のイベントを企画運営するためには、SLの仕組みに精通していなければならない。
その上で、イベントとしての役割分担の把握管理と共に、SLの中での権限の所在とその担当をも把握して動かせなければ、全体をうまく管理しきることは困難でしょうね。

言ってしまえば、イベント運営する人の責任者が持つ「イベントの中での権限」と「SLの中にある操作や設定関係に関する権限」の二重構造があるのではないか?ということです。(割愛していますが、権限に責任が同居していることは自明です)
そう考えれば、実は、人を動かすことにはSLでの権限が不要であることも見えてくるわけですよ。
規模が大きく運営側の参加者も大きくなるようなイベントや集会の場合には、実際に『その人にしか出来ない操作』を担当する役割は、全体を把握して管理するような立場の人と区別しておくことも有効な方法ではないか。
人を動かすこととSLの操作が伴うことの区別化・明確化。



まあ、お誕生日会レベルの規模でここまでの意識が必要だとは思いませんが、結婚式だの何だのともなれば、当然こうした意識は皆さんお持ちなんでしょう。
こういうことは、えてして意識していても行動することが難しい話なわけで、こうして書くだけのことでも整理しきれているとは言えない。
SLではクリエーターの立場が一段上に見られる(個人的には必ずしもそう思いませんが)と言われる中、イベントの運営管理を適切にこなせる人材もまた、かなり貴重な存在なのではないかと考えてしまいますねぇ。
もう少し具体的で細かな点にも思うことはあるのですが、これを一度書くことでそれらを思い出すきっかけにでもなればと。
だから覚書。(笑)

つまらない文章を最後まで読んでいただいて、ありがとでした。  


Posted by Zusi at 16:43Comments(0)思った・考えた

2008年05月09日

SLでの死とは。

連休だし・・・ということで、SLに関わってから遠ざかっていた読書を少し。
一つは、忙しくても年に一冊は太平洋戦争や近現代史の本を手に取ると決めているので、そちらを。
もう一つはSFで、『敵は海賊・正義の眼』。

相変わらず神林長平さんはいいですね。
「正義の眼」の意味も、読み終えると深いモノを感じます。
しかしラヴはよかったな、ラヴは。(笑)

敵は海賊シリーズに限らず、神林さんのテーマは「言葉」だと思います。
そこに表面的な記号性や意志の力(人だけでなく機械や戦闘機の意思が登場するあたりSF)などを絡めて作品ごとにアプローチを繰り返しているのでしょうが、印象に残っているモノの一つが「コミュニケーションの断絶が死である」という考え。
まあ、死者との対話というのは古典的というか王道で、SFから神話まで古今東西腐るほどあるわけです。
死という壁が一枚間に立ってしまうと、こちら側と向こう側のコミュニケーションは正しく成立しない。
裏を返せば、コミュニケーションが成立しない状況を死と。
ただし、意思疎通ができないからと言って「どちらが死んでいる」かは、実は当事者には決定できない可能性もある。(苦笑)


SLをやっていて感じるのは、とにもかくにも「インしないことには始まらない」という点ですね。
別のネット上やRLで接点がある人たちは違うのでしょうが、SLの中で関係が成立してるならば、SLという触媒が無ければ何も起きなくなってしまう。
悩みや苦しみ、喜びや楽しみも、SLという接点でコミュニケーションすることによって共有し理解したりすることができるわけで、インしなければ無(む)です。
何らかの事情を分かっていれば、待ち続けることで”次”を信じることはできるでしょう。
しかし、何も分からないままの断絶は、どことなく”死”にも通じるものを感じます。
コミュニケーションの断絶、あるいは意図的な拒絶。

生や死に理由が必要かどうかは難しいところです。
さらに、その理由を説明する義務や必要もあるのかどうか。
ただ、理由のはっきりしない死、つまりはコミュニケーションの断絶に直面させられると、人は戸惑うし心配してしまう。
「死を心配する」というのも、かなり言葉遊びなものですけどね。(笑)
どうしたの?と言いたくなるわけですよ、平たく言えば。
しかし、そこにはコミュニケーションの断絶があるので返事はない。
(実は考えすぎで、くだらない些細な理由で一時的な音信不通になる場合もあります/笑)

言うまでもないことですが、SLの死はRLの肉体の消滅を伴う死ではないので、さいわいにも復活があります。
ある日ふと戻ってくるかもしれない。
別アカで楽しくやっているかもしれない。
復活した状態でコミュニケーションがとれていない場合は、さしずめ死後の世界を思うようなものでしょうか。
SLという世界で死んでも、それがRLの可能性までもを失うわけではない所に救いを感じます。
もっとも、だからこそSLの生(コミュニケーション)は軽い、という否定的な裏返しも存在するかもしれませんが・・・。

人は変化に慣れていくものだし、忘れていく生き物なんでしょう。
だから大切にしたいモノや忘れたくないモノの尊さを思う。
生であれ死であれ、そこにある意志は尊重したいものです。
人にはそれぞれの事情や思いがあるから、それを責める気は毛頭ないですしね。
理想どおりにはなかなかいきませんが、コミュニケーションの断絶に直面しても次を信じて待つ、あるいはその人にとっての次をどこかで応援する気持ちまでは捨てずにいたいものですな。



数か月?ぶりに連絡をくださった方がいて、そんなこともつらつら考えて書き散らかしたこの文章。
SLに葬式は無い・・・と以前にインワールドで話題に出たことがありましたが、偲ぶ会、思い出を語る会ぐらいはあっていいかもしれませんね。
誰のというわけではなく、SLの中でこうしたことに直面してきた皆さんにとって、何かしらのご参考までに。

意味不明(思い付きの文章ですから/汗)だったかもしれませんが、最後まで読んでくださってありがとうございました。(礼)  


Posted by Zusi at 22:54Comments(4)思った・考えた

2008年04月28日

人と向き合う。

以前、カフェのことをお悩み相談室かカウンセリングと言った方がいて、思い当たる節に納得したものです。

SLの中で忘れてはいけないのは、アバターの向こう側に人がいるということで、仮想世界の中で起きたことの影響はRLの人間に無関係ではないということでしょう。
やっているのは、まぎれもなくRLの人間。
SLに対する考え方はそれぞれで、ただのゲームさ~と割り切って気軽に楽しむ人から、SLの中にとどまらず商売の成功や恋愛を探し求めるような人もいる。
そこの温度差というものは人ぞれぞれだとしても、お遊び感覚だったのに自分でも思わぬことで傷ついたり喜んだり、もちろん深い思い入れの中で悲喜こもごもを感じることはあるはず。
私自身も含めて、RLの人間がいてそれに関わっているということの意味合いは、分かっているようでいて分からないのが現実ではないかという気もします。


SLの核心はコミュニケーションだと思っています。
コミュニケーションは人がいてこそ成立するわけですから、人がいて成立するのがSLということになります。
企業サイトのHPに担当者が常駐していなくても不思議なことではないはずですが、企業SIMに担当者がいなければ手を抜いているように感じてしまうのがSLの不思議さというもの。
あらゆる物を作っている各分野のクリエーターがいなければ、SLでは何もできずに何も存在しません。
しかし、実はSLの中でもっとも大変で価値のある職種は接客業なのかもしれない・・・と。

人が人と接することには、とても大きな”力”が必要なのだろうと思います。
恋愛などはまさにそうで、一人の人と向き合って沢山のことを共有したり理解したり努力がいる。
その労力が苦にならないから恋愛になるのだと言われればそうかも知れませんが、自分が使える絶対的な時間や体力には上限があるわけで、人と向き合うことを優先できるという意味や尊さに気づかされるものはありますね。
ましてや、仕事として人と関わり向き合うことともなれば、恋愛とは異なるとはいえ似たような力が求められる点は同じでしょう。

接客といってもピンきりで、物を作って販売することも商品を通じたコミュニケーションだという側面があります。
明るく楽しいみんなで盛り上がるカフェから、落ち着いて話のできるカフェやバー、接客業の華とも言えそうなクラブなど、さらには仮想現実の世界とは言え風俗系もまた接客の一つには違いないわけです。
お店ごとの雰囲気やその中での人間関係など様々なことがあるので、一口にこうだと決め付けた話は無意味だと思います。
プロ意識をもったお店から趣味やゲーム感覚のお店まであるでしょうし、だからこそのSLでもある。
ただ、物を作ったりすることに比べると、直接人と人が関わるだけに、その影響は確実にRLの自分や相手にも反映されやすいのではないか?
そこは思ってしまいます。


SLにはプロが少ない、ともよく言われることです。
その理由や背景は別の機会に譲るとして、プロとして知っているべき注意点や対処法などを知らないことの危うさは、忘れるべきではない気がします。
人の悩みを聞いたり相談に乗ったり、そんなことも本当にカウンセリングのノウハウを持っていれば別でしょうが、やれるつもりでやれば簡単にどうにかなる・・・ものでもないわけです。
接客業の中でも、まだ軽いノリの無料カフェなどは自分たちも楽しむというスタンスで働くことができるかもしれませんが、料金が発生しチップも少なからず必要なお店などではそれに見合ったサービスを提供しなければならない。
そこで起こる様々なことはRLの人間の感情や精神に大きな影響を与えるわけで、しかもプロとしてRLの経験があればともかく、そうした影響をやり過ごしたり自分でコントロールできないことだってあるかもしれません。
例をあげれば、スタッフとお客さんの恋愛話などはそうしたものの一つで、たとえお店のルールで禁止とうたってあったとしても、プロの心構えや対応が身に付いていなければ気持ちが動かされることは仕方がないと思えます。(スタッフもお客も)

人が人と向き合うのは大きな力が必要だし、そうした力はRLの人間を大きく揺さぶる。
それでもできる人と、そうじゃない人がいる・・・でしょう。
怖いのは、できない人ができる人のことを見て、自分にもできるんだと思ってしまうことではないか?という気がします。
たぶん、そうした人間関係の中で自分を保てる人たちも傷ついたり疲れたりしないわけではなく、そうしたダメージをどう扱っていいか分かっているだけではないでしょうか。
SLでは接客業の敷居は低いし、RLではできないことをやってみたいという意味でも入りやすいはず。
しかし、その中で受ける影響が確実にRLの自分にも跳ね返ってくるのが接客業、でもあると思うんですよ。


恋愛や人間関係に疲れてSLをやめるという話は、ソラマメにも当たり前のように見かけます。
だからこそ、恋愛や接客業の中で人と関わり向き合っている人たちに凄さと尊さを感じてしまうのですが、反面で「恋愛やRLの接触はタブー」というネット上の警句も一理あるわけです。
恋愛ならば自分が関わる相手を自分で選べます。
しかし、接客業ではそれができない。
物を作っていればやめる時は手を止めればいいだけですが、お店で働き信頼関係やしがらみが生まれていれば、やめるにやめにくい状況だって起こりうる。
うまく回っていれば何でもないようなことが、ほんの小さなすれ違いからどんどんと重荷になるようなことは珍しい話ではないでしょう。

繰り返しですが、接客業で頑張っている人たちは凄いと思います。
アダルト方面のことも、本人が好きでやっているなら別に問題はないと思っています。
そうしたことに関わっている全ての人に言いたいのは、ただ一つ。
疲れきってヘトヘトになるまではやらないで、と。
これは恋愛にも言えることで、抜けだせない苦しみの連鎖のようなところには落ち込まないでほしい。
身動きとれなくなる前に抜け出すか、誰かに打ち明けてください。
それぐらいしか思い付かないですが・・・。


以上、人と向き合うことの苦手な人間の偏った意見ですな。(苦笑)
人の気持ちを受け止め、相手に伝える努力をする。
あるいは、それを仕事として受け流したり、楽しんだり楽しませたり。
そんなことについて、つらつら答えの出せない考えを巡らせる今日この頃。
楽しいことや得られることも一杯あるでしょう。
みなさん、頑張り、そして楽しんでください。

人と向き合うこと、そこには仮想と現実の区別はない・・・かな。
ただ、向き合うべき人がいるだけで。  


Posted by Zusi at 12:36Comments(6)思った・考えた

2008年03月09日

日常の中で。

記念日やイベントとか、実は苦手なんですよね。

特別なことをしなければならないという強迫観念みたいなもの、それに従うことが正しいというような暗黙の価値観、そこに息苦しさを覚えてしまうのかも知れません。
逆に、特別な機会があるからこそ何かをしようと思って出来る、という考えはよく理解できます。
記念日やイベントだから嫌いということではなく、そこに何を感じるのかという微妙な部分で受け入れることの是非が決まるというか。
空気に染められて主体性を見失う自分の姿がどうにも苦手だ・・・と書くと、格好つけすぎですけども。(苦笑)

特別な時に特別なことをしようとするのも、それを”きっかけ”として自分で選ぶことならばいいと思います。
しかし、じゃあ日常の中にそうした価値はないのだろうか?と考えてみると、「特別な時を特別扱いするあまりに日常の価値を見失う」ということへの疑問は避けられません。
「特別な日」と「日常」という二分法がまず何か??という話でもあります。
昔、サラダが美味しかったから記念日だと読んだ詩(笑)もありましたが、何に価値を見出すのかという基準がそこにあり、価値を見つけた時や物を特別なものと感じる。
つまり、特別と日常がまずあるのではなく、自分の考えや感じ方があってその区別を付けるのが「あるべき姿」だろうと思うわけです。

考えや感じ方が変われば日常が特別になり、特別が日常にもなる。
その価値を決めるのはカレンダーや流行ではなく自分の考えや感じ方であるという、自分が決めた特別なことがあって、だから記念日やイベントがあるというのはとても素晴らしいことに思えます。
そしてもちろん、世間的に特別なことではないけれど自分の中では大切にしていることを日常の中で持ち、それを実践できていればなお素晴らしい。


理想として大切にしたいのは、「こんにちわ」と「ありがとう」なんですよね。
日常の中で当たり前のように使う言葉ですが、当たり前だからこそ形式的に使いがちだし、そこに意味や気持ちを込めることが意外と難しかったりもする。
相手に伝えたい気持ちを持って使わなければちゃんと届かない言葉。
それが挨拶と感謝ではないかと思います。
言葉と、それを使うタイミングや状況をちゃんと大切にしなければならない。
当たり前のことを当たり前のように言葉で相手に伝えるという、その難しさを大切に出来れば立派なものだと思うんですよ。
まっ、理想としての話なので、私に実践できているということではないのですが。(苦笑)

お祭りやイベントが多く、ワイワイやるのが楽しいSLという傾向はあるような気がします。
それはそれで楽しいですし、重さにもめげずに楽しもう・楽しませようという人たちの気持ちにも好感が持てます。
季節やイベントに合わせたアイテムも、うちで用意したりしていますし。(笑)
特別に振り回されるのではなく、特別な時に何もしないことを引け目に感じることもなく、自分の決めた価値の”特別”を大切にしたい。
そこに記念日やイベントが重なるのであれば、忌避する理由はないでしょう。
決められた特別に従うだけでない、自分の価値観をSLでもRLでも大切に出来る、そんな姿勢でありたいものです。



まあ~イベントが苦手な言い訳を屁理屈で武装しているような気が、自分でしなくもないのが困ったものですな。
楽しいし面白いんだけど同調機能の付いたアイテムにはどこか迷うところがあるし、『一体感の押し付けがましさ』がとにかく苦手だという、身勝手で天の邪鬼な人間の独り言でもあります。
話半分にどうぞ。  


Posted by Zusi at 15:11Comments(2)思った・考えた

2008年01月20日

会話。

個人的に、ネットコミュニケーションの基本は不干渉と相互の尊重だと思いますが、SLでもそれは同じではないかという気がします。
それを「傷付くことを恐れる現代人」などとしたり顔に言ってみせることも容易いですが、言葉の表現に依存しがちなネットのコミュニケーションにおいて自覚的に慎重であることは、一方的な批判の対象に当たるとは思えません。
それを実践しようと思えば、必然的に相手のことを話題にすることを避け、自分のことを話題にするか自分の思いや考えを話すことになりがち。
それにもまた、自己中心的な一人語りで相手の話に配慮しない・・・という落とし穴があり、まったくコミュニケーションというのは理屈と実践の両立について「正解のないもの」だと思わざるを得ないです。


この書き出しだけで既に自分の表現力に疑問を感じつつですが、まあとにかく。(笑)
会話を話す事と聞く事の二つに分けると、4割話して6割聞くぐらいでいいのではないかと思い、そのためには「自覚して3割話して7割聞いているつもりの実践」が適度なのかも知れないと思うことがあります。
しかし、私とインワールドで話したことのある人の大半は、そんな印象を持たないはず。
たいていの場合に、私はよく話すほうですからね。

話す割合と聞く割合の実践は私一人の問題なので、ある意味どうでもいい話です。
ですが、問題なのは「その時に話す話題」なわけで、自分の話をダラダラ続けてるか相手の話に乗って余計なことを言い過ぎているのか、どちらにしても相手の人に対して迷惑をかけている場合も多いのでしょう。
傷付くのを恐れる現代人を気取るわけではありませんし、大体において会話でのすれ違いやその場での快・不快などはお互い様ですから、それほど気にしても仕方のないことです。
ところが、ある程度相手とコミュニケーションをとれている”つもり”になっていると、意外なところでボーダーラインを踏み越えてしまい、相手に大きな不快や迷惑をかけていたりするので怖いところがありますよね。
そして会話での常として、言い過ぎた言葉や言わなくてよかった言葉こそ相手に残り、取り返すことの出来ない言葉ともなる。

SLでは「居場所」ができると居心地良くなり、その反面、人への甘えや悪い意味での慣れが出てくることはあると思います。
出来るだけ新しい場所へも出ていきながら、適度に人との距離感において自分の中でバランスを保つことを意識しておかなければ、その居場所を失うようなことがあった場合に過剰な依存や甘えは全て自分へのダメージへと跳ね返ります。
会話をし、よく会い親しくなることとは別に、相手へ迷惑をかけ自分の位置を見失ってしまうようなリスクへの目配りは忘れるべきではないのかも知れません。
だから最初から人と接しない・・・となれば、まさしく傷付くことを恐れる~でしょうが、そこまで0か1かのデジタルで物を考える必要もないはず。


要するに、しゃべり過ぎて相手に踏み込み過ぎ、そして不愉快にさせる「その手前で自分を律したいのが理想的だ」というわけなんですがね。
こういうことをつらつら思って書くのはいいんですが、さてはて、いかんとも実践が。(笑)
自分が作る物への過信や慢心について少し前に書いたので、人に対してもそういうことのないように、こうして文章にしてみました。
RL以上にネットやSLに永遠は無いのですから、いい意味での「その場を大切にした関係」を誰とでも会話の中で結んでいきたいものですわな。
インワールドで私が余計なことを言ってたら、あぁ今日もまた4割を超えて言ってるなぁと、苦笑の一つでもしてもらえれば幸いであります。(一礼)

・・・って、相手に求めて終わってたら駄目だよな。(苦笑)
(注:物作りへの批評には、また異なるスタンスが必要だと考えています)  


Posted by Zusi at 21:10Comments(3)思った・考えた

2007年12月23日

まずは一呼吸。

クリスマス関連のパーティーやイベントでは、どうしても飾り付けなどの影響で重くなりがちだろうと思います。
アバターが装着するアイテムによる影響や、演出のためのパーティクル、臨時プリムなどを多用しがちであることなどなど。
人が増えれば重くもなりますし、そうした時ほど何かをやりたく、また見せたく思ってしまう。

SLでの操作は、時々不可解な反応になる場合があります。
ほとんどはラグ(タイムラグ)や一時的なシステムトラブルのたぐいで、しばらく時間がたてば自然に解消されることが大半でしょう。
むしろ、おかしいと感じた時に何度も試そうとしてクリックを繰り返したりすることで、事態が悪化(と感じられる)が起きる可能性も否定はできないと思います。

アイテムなども、本当に欠陥があり機能が正常ではない状態で売られている場合もありますが、こうした負荷のかかる状況などが原因で正常に作動しないだけであることも珍しくはありません。
おかしいと感じて慌てる前に、まずは一呼吸。
他のアイテムやポーズボールなどからの影響があったり、場所の制約(土地の設定)が影響していたり、ごく稀には自分の操作ミスという場合もあります。
どこへ行っても重いと感じるような場合には、自分自身の装着しているアイテム(特にパーティクル系やリッスンの使用されている高機能アイテム)や服などが原因である可能性もあるようです。
困った時ほど、何をするのか行動に移す前に「まずは落ち着くように心がけ」をしましょう。
ホントは落ち着いている場合じゃなくても、「落ち着こう」と一回思うだけでも少しは違いがあるのではないかと思います。

アニメやアイテムの機能は、必ずラグとセットで考えるようにする。
作る側の配慮も必要だと自分で思いつつですが、使う側の立ち場でも「気持ちの用意」があれば本来の楽しみ方や良さがちゃんと発揮されるはずです。
これはうちの商品だけに限った話ではないと思うので、こうした楽しく華やかな時期だからこそあえて書いてみました。
出来れば本番で使用するアイテムなどはサンドボックスなどで事前に使用方法などをテストし、負荷のかかるアイテムの使用は自制的におこなうなどの配慮はあっていいと思います。
我慢ばかりも楽しくないので、そこは難しい所なんですけどね。

 
(あえてこんなのの宣伝を入れときませう/笑)


☆参考

『より美味しく、より楽しく。』
http://zusi.slmame.com/e94387.html


☆店舗案内(予告なしに変更する場合があります)

Z's CA (Nanba shop)
http://slurl.com/secondlife/Nanba/137/58/26/
(ポーズボールや椅子は二階にあります)  


Posted by Zusi at 16:54Comments(0)思った・考えた

2007年12月22日

お値段なお話。

作る側の人間にとって、SLでの値段設定というのは正解のない難問だと思います。
ほとんどが持ち出しだけで成立(金銭的な面だけで言えばね)しているであろう無料のカフェやバーなどの話もありますが、ひとまず物作りと販売という点で話を書き散らかしてみます。

『いいお店といいクリエーターさん』(SECOND LIFEてき日常 -Mayuki's Room-)
http://mayuki.slmame.com/e88106.html

自分も所属し大変お世話にもなっている黒猫ジャパン(Black Cats Japan)の団長さんが書かれた少し前の内容ですが、こうした「値段に対する意識のあり方」をよく考えてみることは大切だと思います。
スキンやシェイプ・服などの人気のある商品はおおよその有名店があると思うので、それを参考に価格帯を考えてみるのもいいでしょう。
私のような食べ物系も徐々に他で見かけるようになってきた感じですが、SLでの飲食は基本的に無料でサービスされるものであるという感覚があるために、値段設定ではいつも難しさを思わずにはいられませんでした。
今も新商品のたびに値段設定で悩みますが、少しは自分の過去の商品を参考基準に価格を決めるようになってきたので、まったく手がかりもないような悩み方からは変化がありますね。
それでも実際のところ、海外での飲食物の値段からは半額、いっても7割程度の値段設定だろうという思いはあります。
おそらく海外でアイテムを探した経験があるからなのか、サービスを提供する側の店舗オーナーやSIMオーナーなどの立場からは、私の商品が安いという意見もよく聞きますしね

全般的に日本の価格は安めである~ということは聞き飽きるぐらいの常識に近いと思いますが、背景にはクレジットカードの使用感覚の違いやオンラインゲームに対する考え、あるいは目に見えないソフトコンテンツや権利の対価をあまり評価しにくい社会的な意識なども考えられるのでしょうか。
アイテムに対する値段設定というのも理由は様々で、企業系の配布物で「広告効果を考えた無料」という扱いから、個人でもゲームの遊びであると捉えた時の「楽しむための善意の供給」というスタンスまであるはず。
RLでの制作や販売と違って基本的には原価というか材料費などが無く、ほとんどすべてが技術や製作時間の対価で値段が考えられる以上、アイテムを供給する側の考え方の違いがそのまま値段に反映されやすいわけです。
現実的には、RMTがあるとは言ってもアイテムの製作と販売だけでビジネスとして成功することはかなりの困難さが伴うわけですが、だからと「タダで作ってタダで利用するような仕組み」の中では物を作る側のやる気やモラルが維持されるのか疑問があります。

良いものを作れば評価が得られる。
そうであればこそ、より良く作ろうと思い、作り始めようとも思うのではないか??
どんなにやっても低い評価のままであると見えた時、良いものを作るよりは効率的に儲けようとする安易な流れに気持ちが動いてしまうことは、否定できないような気もするのですよね。
たとえ良いものを作ろうという人が増える中でも、安易な儲け方を考えて作り・販売する人たちは必ず存在するでしょう。
しかし、良いものを評価する適切な基準が存在すれば、その基準に照らして中身が伴わないものはある意味市場原理によって批判され淘汰されてゆかざるを得なくなる・・・かもしれない。(苦笑)

タダで楽しめることが面白さであるという考え方もある、とは思います。
ですが、タダで楽しむだけで得られる楽しさは結局「その範囲のもの」でしかない、という循環に陥る可能性があるとも言えるはず。
そこをSLだから・無料だからと考えて納得するのも一つの選択肢であることを全否定するのは難しいですが、おそらくこんな文章をここまで読んでいるような人は”いや違う”と思う人ではないかと思います。あるいは、こうした問題に迷うか悩むか・・・。
過剰な暴利をむさぼる値段設定は問題ですが、それなりの楽しみや満足に対価を支払う感覚を持つ人たちが増えてゆくこと。
そうした意識の底上げのようなものが、物を作る側への意欲へも通じるはずだと私は思っています。

しかし、そうは言いつつも自分自身の価格設定では、どうしても安めの日本価格を『壁』として感じる妥協をしてしまっているわけですけどね。(同時に、自分が作る物への自信の無さか/汗)
まあ、まだ諦めきったり悟りきっている私ではないので、こうした値段についての悩みや考えはまた書く機会があるかもです。
ここで強調したいと思う部分は、使ってくれて買ってくれる人たちの行動も物作りする立場へ大きな影響を与えているのだという、そこの部分を少しでも意識してもらえれば嬉しいという点です。
自分は物を作らないから無関係だ~ということはないんだと、私は考えていますよ。

 
(安くても、いまだにコレがたまに売れてくれるので嬉しい・・・のも本音/笑)


☆参考

『たまにはこんなの。』(Zusiのぶろぐ。)
http://zusi.slmame.com/e72659.html  


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2007年12月20日

テクスチャーについて。

インワールドの建築において重要な部分は、テクスチャーがその大半を占める。
しかし、建築表現におけるテクスチャーの重要性に異論はないものの、テクスチャー自体は決して建築とはなりえない。

というか、こんな当たり前な話を、自分の整理を込めて文章化してみませう。
大げさな文章になるかとは思いますが、ご容赦くださいませ。(苦笑)


SLが三次元化されるためにはプリムという要素が欠かせないだろう、とは以前にも書いたことです。
テクスチャーへの良質な描き込みは、プリムをより三次元的に捉える視覚効果に大きな影響を及ぼし、全体的な雰囲気というものを作り上げることを可能にする。
建築を機能や空間そのものの表現手段であるととらえた時、RLにおける質感による表現が存在するのと同様、テクスチャーによる建築表現は軽視されるべきではありません。
しかし、ではテクスチャーが良質であればいい建築となりえるか?というと、そこは疑問が生じてくるわけです。

建築とは、視覚的な部分だけがすべてではありません。
機能的な満足も重視されるべきですし、RLにおいては安全性やコストの問題も当然あります。
SLの建築に求められる機能では、本来的な建築における「関係性の整理」という設計手法が軽視される傾向にある気がします。
これは、インワールドで建築へ関わる人たちの中にRLでの設計技能を有しない人たちが少なからずいること、また依頼する側や自分で建てる人たちの多くがさらにイメージだけを頼りにした建築を望むこと、こうした要因が大きく影響しているのではないかと思われます。
反面、RLでのビルディングタイプ(類型的な機能から導かれる建築形態)に固執することなく、視覚を重視することによる「概念的な破壊からの創造」が苦もなくおこなわれている利点も同居しているとは思えますが、それは限られた少数における幸運な例でしょう。

具体的に考えられるべきSLでの建築の機能的なアプローチの根本は、なぜそれが必要なのか?という単純なところから出発すべきだろうと考えます。
そしてその際、見た目がいいから・雰囲気がいいからという視覚的な要因に向きがちな根拠や理由を自制的に扱い、半歩踏みとどまって『機能とは何か??』と深く考えてみる必要性を思うわけです。
むろん、肯定的な機能(計画的なもの)の追及よりはむしろ、インワールドでのプリム形状やプリム数といった制約から発生する、否定的な機能(システム的なもの)が及ぼす限界が必然的に立ちはだかることは避けようもありません。
しかし、見栄えや見た目だけでしか建築を捉えようとしない発想から少し距離を置こうと考えてみるだけでも、その建築は変化を見せるのではないかと思います。

テクスチャーを建築表現におけるドローイング(描写)であると考えた時、表現すべき中身が伴ったドローイングには説得力が加わり、より良質な見た目や雰囲気へと昇華される可能性があるはず。
例えば、リアルな陰影や反射の表現されたガラスのテクスチャーがありえないような面積で一枚として使われていれば、テクスチャーが持つ説得力は半減しかねません。
陰影が濃く汚れ表現のしっかりしたテクスチャーは絵としてのリアリティを感じますが、実際の建物がそれほど暗かったり古ぼけていることはあまり一般的ではありません。(好みや良い悪いの問題を別にすれば、日本の現代建築は全般的に明るく陰影が少ない傾向にあるはずです)
つまり、「建築としての中身」と「テクスチャーとしての質」の一致が重要視されるようなアプローチはあってもいいはずだ、と思うわけです。


この考えを少し敷衍すれば、食べ物系に私がリアルの写真を使いたくない、と思うことにも通じてゆきます。
本物の写真を張れば本物の食べ物・・・なんだろうか?ということです。
テクスチャー以外の部分にも「食べるということ」や「食べ物であること」の部分はあるはずなので、そこからアプローチすればテクスチャーだけに依存しない食べ物の表現は成立するはず。
まぁ、テクスチャーを扱う技術がない人間のヒガミともヤッカミとも読めてしまう主張ではありますが、理想を言えばこういう考え方もあるはずだと。
テクスチャーを重視して、そこから出発する建築や他の物作りもあっていいと思います。
一方で、テクスチャーが苦手だからと屁理屈をこねてても無意味だと理解している部分は、もちろんありますが。

小難しいことは抜きにして、もっとSLで建築を楽しめて、建築を楽しんでもらえるような方法はないものかと、そこは関心を持っている所なんですけどもねぇ。
いやいや、難しい。(苦笑)  


Posted by Zusi at 13:36Comments(2)思った・考えた