2009年03月31日
町並みのすすめ。
シャッター街の町おこしにセカンドライフ、というのはどうでしょうか?
インワールドでさえ廃墟化が言われることを思えば、一見無謀極まりないアイデアでしょう。
しかし、目的や意図の曖昧な町並みや建造物群が廃墟となることと、現在の空洞化を見てもらうことによる変化の可能性は別の話のはず。
SLの建物は変化に柔軟性があります。
プリムなどの制約はありますが、その工事にかかる手間暇はRLのそれと比較にはなりません。
完成した町並みが再現されることだけがSLにおける町並みの正しいあり方ではなく、むしろ「変化することを前提とした」RLからの導入はあってもいいでしょう。
SLの活用方法に会議チャットなどが挙げられますが、場や情報を共有することにおいて三次元的な意味合いをもっと活用する内容はあるはずです。
そうした、平面的ではなく立体的な場所を共通の認識として共有することの一つに、「町並み」というものがあってもいいのではないかと考えます。
関係者が参加しコミュニケーションをとりながら新しい発展や可能性を模索するという町おこしやリニューアルにとって、その会議(集会)的な意味合いも含めて考えれば、それほど非現実的なものだとは思えません。
参加者にSLを使えるパソコンの保有が必要となる点がハードルとして存在することは確かですが、絶望的な障害とまでは言えないでしょう。
空洞化した商店街や地方で観光資源として整備される町並み、あるいは三セクのような物が抱える箱モノの遺産。
RLにおいて持て余している現状があり、それについて変化の必要性があり、かつ内部での議論と外部への周知が活性化という点で求められるような場合。
SLといいう場所を実物展示しながらみんなで提案し考えるプラットフォームとして活用する方法は、ありそうに思えます。
ひとつの建物における改装案を数通りシュミレートするような有り方も含めて、閉鎖的になりがちなコンペティション(コンペ)の公開などがSLでおこなわれるとすれば面白いでしょう。
視覚的にコンセプトを提案することが可能な仮想三次元という特性をどう活かすのか。
使用前・使用後といったふうに、現状を示してこれからの姿を提案されてあれば面白いんじゃないか?ということですね。
私は、SLの中にある建物はSLの中だけでしか意味を持たない、そういう発想からの転換が必要ではないかと思っています。
同時に、RLの建物をコピーすることがSLにおける建物の質を上げるとも思いません。
つまり、建物の外形的な意味とコンセプトや表現意図を区別したうえで、後者を視覚的に実体化させる建物がもっともっと必要ではないかということです。
人が住めば住宅になり、物を売ればお店になる。
そういった部分での機能と外形という関係は、しかしSLの中でどれほど整理し考察されているでしょうか。
なぜ住宅でありなぜ人が住むのか、意味と形の関係にSL独自の要素が解き明かされることもあまりなく、比較的RLからの「形だけの導入」が多いのではないかと思います。
もっと平たく言うと、住宅らしい建物をセンス良く作ることがSLの中の住宅建築である、というような暗黙の感覚を個人的には感じ取ってしまうわけです。(住宅を一例とすれば)
それはある意味、建築ではなく『アイテムとしての建物』なのかもしれませんし、需要と供給の関係の中では正しい流れでもあるのかもしれませんが・・・。
町並みと言っても、すでに昭和(的)の町並みなどがつくられている場所はありますし、この度SIM化した”またたび町”には私も縁があって少しだけ関わらせてもらっています。
インワールドの中でそうした町並みを作り楽しみ参加することを否定するものではありませんが、そうした仮想世界の中での営みの一部は、確実にRLの町作りにおける一端に通じていることにも注目したい。
SLの中で町並みの核を作ろうとすることは、RLにおける町並みの核を作ろうとすることのブレストーミングというか、練習にはとても良質なものとなり得るでしょう。
外形的な「建物の形をクリエーターが作る」という部分ではなく、参加し提案し進めていくというプロセス全体が重要であり、しかもそれが結果的には”見える”のがSLです。
見えるものとしての町並みを作らなければSLの中の作業としては無意味ですから、当然と言えば当然ですね。
実現性に絞って言えば、個人住宅の改装案やワンルームマンションの改装案などの公開コンペなどのほうが敷居は低いと思います。(比較の問題であり、現在のSLに期待されている社会的認識から言えばそれでさえ簡単ではありませんけども)
しかし、お仕着せで用意されたイベントの限界は、すでにインワールドでいくつも見てきたのではないでしょうか。
並べられた物を見てどれがいいのかを投票するだけでは、短期的かつ限定的な効果しかありません。
SL自体の使い方としては、そうしたイベントそのものが目的化されることはないでしょう。
あえて実現性では厳しい町並みの活性化やシャッター街の町おこしなどを可能性として提案してみたのは、「コミュニケーションツールとしてのSL」と「視覚化することで存在につながるSL」の二つの特性に合致するのではないかと考えたからです。
かなり特殊な提案ですが、人々が参加すること、活動の継続が変化を生み出すこと、SLを道具として使い場所として活かそうとする発想の一つとして考えればこういうアイデアもあるのではないかと思います。
SLの中にあるモノは完成してなければならない。(あるいは、アイテムとして一つの完成があるべき、とか)
そういう発想では、完成した時点でそのモノは終わってしまうわけです。
建築とは、建物の形が出来上がった時に完成なのではなく、使われ機能して意味を持ち続けてこそ『完成し続ける』ものではないかと最近よく思います。
RLでは変化し続ける建築というのは物理的制約から困難な場合も多いわけですが、しかし仮想世界の中では違います。
ひとつの意味や目的を維持する過程においてフレキシブルに姿を変える建築の可能性として、RLにおいても変化し続けることで常にそこに存在し続ける町並みとの親和性を考えてみたものです。
まあ、この話自体は理屈倒れの極み(苦笑)という気がしないでもありませんが、SLの中で完結させるのではなく、宣伝効果だけをRLとのつながりとするのでもなく、道具として使う効果の可能性をもっと考えてみてもいいのではないか?と。
SLではウェブ上でサイトを眺めているよりももっと能動的な側面が確かに存在すると思います。
参加者・利用者の意識の変化そのものを使ってRLで何かを生み出す、その道具にSLを使ってみる可能性はないのか。
そんな話ですね。
荒っぽいアイデアの原型でしかありませんが、最後までお読みいただいた人には感謝を。
インワールドでさえ廃墟化が言われることを思えば、一見無謀極まりないアイデアでしょう。
しかし、目的や意図の曖昧な町並みや建造物群が廃墟となることと、現在の空洞化を見てもらうことによる変化の可能性は別の話のはず。
SLの建物は変化に柔軟性があります。
プリムなどの制約はありますが、その工事にかかる手間暇はRLのそれと比較にはなりません。
完成した町並みが再現されることだけがSLにおける町並みの正しいあり方ではなく、むしろ「変化することを前提とした」RLからの導入はあってもいいでしょう。
SLの活用方法に会議チャットなどが挙げられますが、場や情報を共有することにおいて三次元的な意味合いをもっと活用する内容はあるはずです。
そうした、平面的ではなく立体的な場所を共通の認識として共有することの一つに、「町並み」というものがあってもいいのではないかと考えます。
関係者が参加しコミュニケーションをとりながら新しい発展や可能性を模索するという町おこしやリニューアルにとって、その会議(集会)的な意味合いも含めて考えれば、それほど非現実的なものだとは思えません。
参加者にSLを使えるパソコンの保有が必要となる点がハードルとして存在することは確かですが、絶望的な障害とまでは言えないでしょう。
空洞化した商店街や地方で観光資源として整備される町並み、あるいは三セクのような物が抱える箱モノの遺産。
RLにおいて持て余している現状があり、それについて変化の必要性があり、かつ内部での議論と外部への周知が活性化という点で求められるような場合。
SLといいう場所を実物展示しながらみんなで提案し考えるプラットフォームとして活用する方法は、ありそうに思えます。
ひとつの建物における改装案を数通りシュミレートするような有り方も含めて、閉鎖的になりがちなコンペティション(コンペ)の公開などがSLでおこなわれるとすれば面白いでしょう。
視覚的にコンセプトを提案することが可能な仮想三次元という特性をどう活かすのか。
使用前・使用後といったふうに、現状を示してこれからの姿を提案されてあれば面白いんじゃないか?ということですね。
私は、SLの中にある建物はSLの中だけでしか意味を持たない、そういう発想からの転換が必要ではないかと思っています。
同時に、RLの建物をコピーすることがSLにおける建物の質を上げるとも思いません。
つまり、建物の外形的な意味とコンセプトや表現意図を区別したうえで、後者を視覚的に実体化させる建物がもっともっと必要ではないかということです。
人が住めば住宅になり、物を売ればお店になる。
そういった部分での機能と外形という関係は、しかしSLの中でどれほど整理し考察されているでしょうか。
なぜ住宅でありなぜ人が住むのか、意味と形の関係にSL独自の要素が解き明かされることもあまりなく、比較的RLからの「形だけの導入」が多いのではないかと思います。
もっと平たく言うと、住宅らしい建物をセンス良く作ることがSLの中の住宅建築である、というような暗黙の感覚を個人的には感じ取ってしまうわけです。(住宅を一例とすれば)
それはある意味、建築ではなく『アイテムとしての建物』なのかもしれませんし、需要と供給の関係の中では正しい流れでもあるのかもしれませんが・・・。
町並みと言っても、すでに昭和(的)の町並みなどがつくられている場所はありますし、この度SIM化した”またたび町”には私も縁があって少しだけ関わらせてもらっています。
インワールドの中でそうした町並みを作り楽しみ参加することを否定するものではありませんが、そうした仮想世界の中での営みの一部は、確実にRLの町作りにおける一端に通じていることにも注目したい。
SLの中で町並みの核を作ろうとすることは、RLにおける町並みの核を作ろうとすることのブレストーミングというか、練習にはとても良質なものとなり得るでしょう。
外形的な「建物の形をクリエーターが作る」という部分ではなく、参加し提案し進めていくというプロセス全体が重要であり、しかもそれが結果的には”見える”のがSLです。
見えるものとしての町並みを作らなければSLの中の作業としては無意味ですから、当然と言えば当然ですね。
実現性に絞って言えば、個人住宅の改装案やワンルームマンションの改装案などの公開コンペなどのほうが敷居は低いと思います。(比較の問題であり、現在のSLに期待されている社会的認識から言えばそれでさえ簡単ではありませんけども)
しかし、お仕着せで用意されたイベントの限界は、すでにインワールドでいくつも見てきたのではないでしょうか。
並べられた物を見てどれがいいのかを投票するだけでは、短期的かつ限定的な効果しかありません。
SL自体の使い方としては、そうしたイベントそのものが目的化されることはないでしょう。
あえて実現性では厳しい町並みの活性化やシャッター街の町おこしなどを可能性として提案してみたのは、「コミュニケーションツールとしてのSL」と「視覚化することで存在につながるSL」の二つの特性に合致するのではないかと考えたからです。
かなり特殊な提案ですが、人々が参加すること、活動の継続が変化を生み出すこと、SLを道具として使い場所として活かそうとする発想の一つとして考えればこういうアイデアもあるのではないかと思います。
SLの中にあるモノは完成してなければならない。(あるいは、アイテムとして一つの完成があるべき、とか)
そういう発想では、完成した時点でそのモノは終わってしまうわけです。
建築とは、建物の形が出来上がった時に完成なのではなく、使われ機能して意味を持ち続けてこそ『完成し続ける』ものではないかと最近よく思います。
RLでは変化し続ける建築というのは物理的制約から困難な場合も多いわけですが、しかし仮想世界の中では違います。
ひとつの意味や目的を維持する過程においてフレキシブルに姿を変える建築の可能性として、RLにおいても変化し続けることで常にそこに存在し続ける町並みとの親和性を考えてみたものです。
まあ、この話自体は理屈倒れの極み(苦笑)という気がしないでもありませんが、SLの中で完結させるのではなく、宣伝効果だけをRLとのつながりとするのでもなく、道具として使う効果の可能性をもっと考えてみてもいいのではないか?と。
SLではウェブ上でサイトを眺めているよりももっと能動的な側面が確かに存在すると思います。
参加者・利用者の意識の変化そのものを使ってRLで何かを生み出す、その道具にSLを使ってみる可能性はないのか。
そんな話ですね。
荒っぽいアイデアの原型でしかありませんが、最後までお読みいただいた人には感謝を。
2009年03月23日
建築のすすめ。
本来、空間を提案することにテクスは必要ではない。
SLの中で活動するにあたっては、買うにせよ借りるにせよ建物らしい形を必要とすることは多くなります。
RLで自分の建物を好きに変えたり選んだりする機会など少ないと思われる中で、SLでは建物はとても身近なものです。
現実社会で一人暮らしをするために部屋を探すことはあっても、更地を借りて自分の好きな部屋を作る人など、まずいませんからね。
問題となるのは、ではそれが「建築」なのか?という点ではないでしょうか。
SLにもプロの建築知識を持った人がいます。
趣味レベルで考えても、椅子をはじめとする家具マニアの人たちもいる。
絶対数としての数が少ないことは確かですが、部分的にならば、クオリティの高い建築系の知識が活かされたり志向されたりしている点では疑いがありません。
そこは踏まえつつですが、しかし個人的な見聞からすると「SLに建物はあっても建築が少ない」と言えそうです。
その根本原因は”見た目が九割”とさえ極言される仮想世界(SL?)特有の考え方にもつながるでしょうし、プリム数による制約というインワールドでの制約が招いている部分も多いです。
要するに、建物の形を表面的に張り付ける見た目が優先されるため、空間をどのように認識するのかという三次元的な感覚そのものが反映された建物が少ない。
RLに近いことが一つの価値判断として存在している現状で、RLっぽいテクスチャーこそが品質の高さに直結して評価されがちな側面もあります。
ざっくりと言ってしまえば、プロの建築家が仮想世界という自由さの中でイメージしたいようなコンセプトや提案の視覚化といった部分よりも、RLにある建物のそれっぽさをいかに上手くSLの中で再現するかという点が、インワールドで求められがちな評価基準ではないかと思えます。
SLでは三次元的な表現が可能とはいえ、実態的には平面的な表現によるテクスの品質が建物の質に直結しているように見えてしまうことは、ある意味では不可避な感覚でもあるのですが・・・。
しかし、ならば設計事務所などにとってSLが魅力的でないかというと、そんなことはないと思います。
コンセプチュアルな空間模型の提案などにおいては『形を楽しむことのできるSL』との親和性があるように思いますし、ストックするスペースの現実的問題としてもSLは非常に優位性があります。
部屋に20個も30個も模型を並べるのには広い場所が必要となりますが、SLではRLでスペースを確保するコストに比べればはるかに楽です。
置いた模型を誰かに見てもらえる可能性という点でもSLのほうが優れていることは明らかですから、建築作品を展示するスペースとしてSLを活用することは可能だろうと私は考えています。
特に中小の設計事務所で自分たちの考えや実績をアピールする場所を必要としている人たちにとっては、本当にお勧めだと思います。
いま、SLの中で扱われている建築の多くは、独自の建築的なアプローチを踏まえた特性を発揮できている・・・とは言い難いでしょう。
私としては、見た目が優先される性質やプリムという制約などの諸条件は、大きな要因ではありつつもあまり本質的な部分ではないという気がします。
建築がもつ本来的な空間提案の可能性やコンセプトの見せ方、考え方をどうやって形に落とし込んでゆくのかというアプローチ方法そのものの部分では、まだまだ手を付けている人は少ないはずです。(特にSIM開発レベル以外)
むしろ、海外を中心としたようなアートとしての空間提案や見せ方の中に、そうした”建築”の部分を意識できるのが個人的に実感する現状です。
いま、SLの中で洗練されていっているように感じるテクスやスカルプトなどを用いた表現方法による建築も、もちろんSLでは大切ですし、これからも大きな部分を占めてゆくでしょう。
ですが、だからこそ、そこにもっとRLな建築知識に裏打ちされた思考方法や遊び心、感性の部分などを融合させることは面白そうだと思うわけです。
そこに手っ取り早いのは、設計事務所などのSL参入でしょう。
パーツとしての建材メーカーの参入も非常に可能性のある部分ですが、日本ではなかなかキッチンセットなどは売られてないようなので、カーテンや絨毯などのインテリア系のメーカーが本物の品質をもとにしたテクスチャーの提供をする形などはまだまだ有望でしょう。(単なる宣伝効果期待ではない「素材を知ってもらう」ための使い方)
TOTOあたりが、インテリア志向の便器などをショールームとして開いてみれば、これも話題性抜群でみなさん見に行きそうですけどね。
とはいえ、現状のSLで直接的な建物作りに設計事務所の必要性があるとは思いません。(スケール感覚がRLとではかなり異なるため、実寸での持込みがほとんど意味をなさないことも影響します)
しかし、あくまでも自分たちの考えや実績を表現する場所としてSLを設計事務所が活用することによって、その延長上にある可能性ならば指摘しうるでしょう。
設計という行為がインワールドの住人たちに間接的な影響を与えて、そこから感じる建築の魅力や楽しさが何らかの変化を引き起こすことはあえると私は思います。
そして、その結果としてインワールドでの建築表現全体に影響が及ぶこと、仮想的な三次元空間に与える質的変化を個人的には好ましいものとして夢想しているわけです。
平たく言うと、プロの空間提案やその感性を見て、自分たちも空間を楽しむために建物を触ろうと興味を持ってもらえれば楽しいだと思いませんか?と。
場合によっては安物のテレビセットのような薄っぺらい建物の形が建築として平然として存在しているSLで、「それが建物なんだ」と思ってもらうことは、建築にかかわる人間としては必ずしもいい気分になれないはず。
また、時代のフロンティアに建築として提案できることがあれば、それに挑戦することもまた建築の社会的使命の一つとはいえないでしょうか?
建築で何かを挑戦したい人にとって、SLはまだまだ可能性のある場所の一つだと私は考えます。
つまり、スチレン模型(白い形だけの模型ですね)にテクスはいらない。
形やボリュームそのもので表現できるものが無いと考えるならば、それはたぶん建築的な発想ではない気がします。(言い換えれば、形やボリュームによって表現が成り立たないと考えるならば)
むろん、そう考えるからといって「私にその能力があるかどうか」は別の問題(苦笑)ですが、もっともっと建築的な魅力をSLに持ち込んで欲しいという”すすめ”を書いたのが今回でした。
RLの建築が持つ魅力的な部分を、SLの中にもっと上手く持ち込んで表現することはできないのだろうか??
そこに人がいて、そこに生活があれば、必然的に建築は求められるべきものであるはずだ・・・と思うのですが、さてさて。
SLの中で活動するにあたっては、買うにせよ借りるにせよ建物らしい形を必要とすることは多くなります。
RLで自分の建物を好きに変えたり選んだりする機会など少ないと思われる中で、SLでは建物はとても身近なものです。
現実社会で一人暮らしをするために部屋を探すことはあっても、更地を借りて自分の好きな部屋を作る人など、まずいませんからね。
問題となるのは、ではそれが「建築」なのか?という点ではないでしょうか。
SLにもプロの建築知識を持った人がいます。
趣味レベルで考えても、椅子をはじめとする家具マニアの人たちもいる。
絶対数としての数が少ないことは確かですが、部分的にならば、クオリティの高い建築系の知識が活かされたり志向されたりしている点では疑いがありません。
そこは踏まえつつですが、しかし個人的な見聞からすると「SLに建物はあっても建築が少ない」と言えそうです。
その根本原因は”見た目が九割”とさえ極言される仮想世界(SL?)特有の考え方にもつながるでしょうし、プリム数による制約というインワールドでの制約が招いている部分も多いです。
要するに、建物の形を表面的に張り付ける見た目が優先されるため、空間をどのように認識するのかという三次元的な感覚そのものが反映された建物が少ない。
RLに近いことが一つの価値判断として存在している現状で、RLっぽいテクスチャーこそが品質の高さに直結して評価されがちな側面もあります。
ざっくりと言ってしまえば、プロの建築家が仮想世界という自由さの中でイメージしたいようなコンセプトや提案の視覚化といった部分よりも、RLにある建物のそれっぽさをいかに上手くSLの中で再現するかという点が、インワールドで求められがちな評価基準ではないかと思えます。
SLでは三次元的な表現が可能とはいえ、実態的には平面的な表現によるテクスの品質が建物の質に直結しているように見えてしまうことは、ある意味では不可避な感覚でもあるのですが・・・。
しかし、ならば設計事務所などにとってSLが魅力的でないかというと、そんなことはないと思います。
コンセプチュアルな空間模型の提案などにおいては『形を楽しむことのできるSL』との親和性があるように思いますし、ストックするスペースの現実的問題としてもSLは非常に優位性があります。
部屋に20個も30個も模型を並べるのには広い場所が必要となりますが、SLではRLでスペースを確保するコストに比べればはるかに楽です。
置いた模型を誰かに見てもらえる可能性という点でもSLのほうが優れていることは明らかですから、建築作品を展示するスペースとしてSLを活用することは可能だろうと私は考えています。
特に中小の設計事務所で自分たちの考えや実績をアピールする場所を必要としている人たちにとっては、本当にお勧めだと思います。
いま、SLの中で扱われている建築の多くは、独自の建築的なアプローチを踏まえた特性を発揮できている・・・とは言い難いでしょう。
私としては、見た目が優先される性質やプリムという制約などの諸条件は、大きな要因ではありつつもあまり本質的な部分ではないという気がします。
建築がもつ本来的な空間提案の可能性やコンセプトの見せ方、考え方をどうやって形に落とし込んでゆくのかというアプローチ方法そのものの部分では、まだまだ手を付けている人は少ないはずです。(特にSIM開発レベル以外)
むしろ、海外を中心としたようなアートとしての空間提案や見せ方の中に、そうした”建築”の部分を意識できるのが個人的に実感する現状です。
いま、SLの中で洗練されていっているように感じるテクスやスカルプトなどを用いた表現方法による建築も、もちろんSLでは大切ですし、これからも大きな部分を占めてゆくでしょう。
ですが、だからこそ、そこにもっとRLな建築知識に裏打ちされた思考方法や遊び心、感性の部分などを融合させることは面白そうだと思うわけです。
そこに手っ取り早いのは、設計事務所などのSL参入でしょう。
パーツとしての建材メーカーの参入も非常に可能性のある部分ですが、日本ではなかなかキッチンセットなどは売られてないようなので、カーテンや絨毯などのインテリア系のメーカーが本物の品質をもとにしたテクスチャーの提供をする形などはまだまだ有望でしょう。(単なる宣伝効果期待ではない「素材を知ってもらう」ための使い方)
TOTOあたりが、インテリア志向の便器などをショールームとして開いてみれば、これも話題性抜群でみなさん見に行きそうですけどね。
とはいえ、現状のSLで直接的な建物作りに設計事務所の必要性があるとは思いません。(スケール感覚がRLとではかなり異なるため、実寸での持込みがほとんど意味をなさないことも影響します)
しかし、あくまでも自分たちの考えや実績を表現する場所としてSLを設計事務所が活用することによって、その延長上にある可能性ならば指摘しうるでしょう。
設計という行為がインワールドの住人たちに間接的な影響を与えて、そこから感じる建築の魅力や楽しさが何らかの変化を引き起こすことはあえると私は思います。
そして、その結果としてインワールドでの建築表現全体に影響が及ぶこと、仮想的な三次元空間に与える質的変化を個人的には好ましいものとして夢想しているわけです。
平たく言うと、プロの空間提案やその感性を見て、自分たちも空間を楽しむために建物を触ろうと興味を持ってもらえれば楽しいだと思いませんか?と。
場合によっては安物のテレビセットのような薄っぺらい建物の形が建築として平然として存在しているSLで、「それが建物なんだ」と思ってもらうことは、建築にかかわる人間としては必ずしもいい気分になれないはず。
また、時代のフロンティアに建築として提案できることがあれば、それに挑戦することもまた建築の社会的使命の一つとはいえないでしょうか?
建築で何かを挑戦したい人にとって、SLはまだまだ可能性のある場所の一つだと私は考えます。
つまり、スチレン模型(白い形だけの模型ですね)にテクスはいらない。
形やボリュームそのもので表現できるものが無いと考えるならば、それはたぶん建築的な発想ではない気がします。(言い換えれば、形やボリュームによって表現が成り立たないと考えるならば)
むろん、そう考えるからといって「私にその能力があるかどうか」は別の問題(苦笑)ですが、もっともっと建築的な魅力をSLに持ち込んで欲しいという”すすめ”を書いたのが今回でした。
RLの建築が持つ魅力的な部分を、SLの中にもっと上手く持ち込んで表現することはできないのだろうか??
そこに人がいて、そこに生活があれば、必然的に建築は求められるべきものであるはずだ・・・と思うのですが、さてさて。
2009年02月06日
リテラシーのすすめ。
話のつじつまが合っているからと言って、話”そのもの”が合っているとは限らない。
サブプライム問題やリーマンショックなどを受けての経済的環境の世界的悪化以降、こうした流れをアメリカ支配の一極主義や金融帝国主義の崩壊などとする意見もあるようです。
そこに象徴的にオバマ大統領の登場などを絡めれば、一見はアメリカによる一極集中の時代から多極化の時代への変化という時代の流れに納得出来そうです。
しかし、例えばオバマさんに対する世界的な注目度などを報道で見ていると、イラクやアフガニスタンでハードパワーの戦略に失敗し金融工学を軸とするようなソフトパワーの戦略にも失敗した「アメリカの凋落」というよりはむしろ、世界的な方向性の漂流において何かしらの指標として新たなリーダーシップの登場を期待する印象を受けます。
人々の関心という点においては、明らかに二期目のブッシュ時代よりも耳目を集めていると言えるはずです。今のアメリカは。
そして、もう一歩踏み込んで振り返ってみれば、そもそも『9・11』の背景と言われたことにはアメリカの経済的発展がもたらす価値観的圧迫への反発があったはずで、だからこそワールドトレードセンターがその標的の一つに選ばれていた。
イラク開戦に反発する欧州の態度もまだまだ歴史になるには早いわけで、それがフランスのサルコジ大統領誕生の背景の一因(アメリカとの関係修復)になったことも思い出せます。(新しい欧州と古い欧州などなど)
一極支配や覇権主義の失敗という枠組みでアメリカを語り、それがまるで世界情勢の前提であるかのように考える意見については、個人的にはかなり懐疑的に見ています。
根本的にそうした意見の前提とされている枠組みの存在自体が、確固として証明されうるのかが怪しいからです。
冷戦構造崩壊から新たな流れが模索される時代の中でアメリカの力が相対的に突出した局面(90年代?~9・11)があり、またそれがしばらく続いていた中(9・11~イラク戦争後)中で、それでもまだしばらく世界的な影響力を持った国家の筆頭としてアメリカという存在は否定しがたい現実として続くのではないか。
アメリカの価値観を失敗と決め付ける反面で新しいリーダーをアメリカ(あるいはアメリカ的と言える強力なリーダーシップ)に求める矛盾が、最近のニュースにはそこはかとなく感じ取れて居心地の悪さがあります。
単独主義に走るだけの力が無くなったから多国間主義に切り替わる、という話のつじつまはシンプルにすぎて、逆に違和感が残るということです。
アメリカの方向性の変化は常にアメリカ大統領によってアメリカの国益であり国民の利益のためになされるはずで、その原則を思えば、ブッシュ時代を否定することだけで新たな時代を希望的に見せるような論調はおかしいと思えてくるわけです。
個人的には競争原理だけの市場万能主義や軍事力によるパワーバランスのみが世界の平和を保つとする考えにも疑問があるのですが、とはいっても状況認識に疑問を感じながら結論だけを賛成するのもまた居心地が悪い。
ましてやそれが、どこかで聞いたような話のつぎはぎによる漠とした認識と歯切れのいい結論の組み合わせとなると、なおさらです。
えっと、なんの話かというと、よく言われる話ほど疑ってかかったほうがいいということです。
瑣末な言葉尻や事実誤認をつついて物事を考えるのは精神的衛生上はあまりよくないわけですが、誰かの意見を見聞きする時には、批判的な視点(否定を前提する視点とは異なる)というものを常に意識しながら理解しようとする姿勢が大切だろうと思います。
一つの文章の中で話の整合性が取れているかどうかは、例えば文章力の問題も大きいわけです。
そして、一つのポイントにテーマを絞ってそのテーマの結論に導くための文章を書くことは、基礎的な訓練次第で誰でもできるようになるはず。(といっても、私にもそれが出来るかどうかは別ですが)
ニュース記事やそれに準ずるような場合、事実関係の部分と主観的判断や価値観の反映された部分を区別することは、読む側にとっても基本的な配慮となるでしょう。
その上で、特に価値観の部分については、慎重に考える習慣を身に付けたいと私は思うわけです。
IT系の情報というのも、ニュースの体裁をとっていながら個人的見解や感想を述べているだけの記事が少なくない印象です。
そのため、あまりIT系の情報サイトは見ないわけですが・・・。
SLについて取り扱った内容もそれらに含まれ、どこかで聞いたような定番の論点と認識に歯切れのいい結論の組み合わせ。
ブームが来ていると感じれば肯定的になり、ダメだと感じれば否定的になるだけで、その構造的な質については一年半前と今とでもあまり変わりがない気がします。
ひどいものになると、伝聞をもとに感想を書いたような記事がニュースサイトの中に堂々と載っているわけで。(苦笑)
そうした記事を受けてか、少なくともSLをやっている私の実感やそこから感じる問題点などとはやや焦点がずれた意見を、個人ブログなどでも判で押したように見かけます。
そういうのはブログのネタに使ってるだけだからいちいち気にするのも無駄だ、と言われればそれも一理あるかもですけどね。
SLについての評価の極点は、SLは終わったかどうかにあるような扱いをよく見かけます。
しかし、そもそも、ではSLは始まっていたのか?
何が?どのように?誰の手で?
今後はメディアの中でSLが終わったという意見自体を見かけることも少なくなってゆくかもしれませんが、私の個人的な考えの一つとして、SLがやってくると言ったメディアの取り上げ方の後始末として「SLは終わった」と書かざるを得ない”立場”というものがあるのではないか?と考えている部分があります。
まるでアメリカの一極支配がやってくると書いた、アメリカのやり方が正しい道しるべであると説いた、その後始末にアメリカの失敗を強調し新たな時代が幕開けるのだと言わなければならないかのように。
もちろん、インワールドでの個人的活動を終えて去った人が少なくないのは事実です。
実感からそれは否定しがたい現実としてあり、また大きな話題としての企業系SIMの閉鎖や撤退の話も動かしがたいものがあります。
しかし、そうした個別のSLとのつながりの終焉や停止が、大上段に構えた「SLは終わった」に直結するのだろうかという、そこの問題が置き去りにされがちであるのも確かではないでしょうか。
それらはむしろ、今のSLが終わったと感じる人の”思い描いていたSLの発展であり成功の姿こそが終わった”のだと、そう言いかえるのであれば私にはすんなりと納得できます。
今回の文章では、SLは終わっていない・・・とおススメしたいのではありません。
終わったかどうかはそれぞれの考えによってご自分で判断してもらうといいのですが、その時に人の意見を参考にするなら慎重に扱った上で参考にしたほうがいいと、そういう”考え方”自体をおススメしたいものです。
ですから、むろん私が書いているこの文章も鵜呑みにする必要などないわけですが、そもそも読んでる人が少ないという大前提があるのであまり気にする必要もないでしょう。(笑)
事実認識を大きく間違えたまま根拠としているような意見は論外としても、一つの事実というものは、そこから価値観の数だけ結論が導き出せるものだろうと思います。
事実と結論がそこそこ無理なく導き出せているように見えても、それをつなげている主観的な部分についてはよく考えるような癖をつけておいたほうがいいと、そういう考えです。
冗談に聞こえるかもしれませんが、よく似た前提の意見ばかりを繰り返し見聞きしていると、いつの間にか自分の意見が曖昧になって聞いた意見が自分の意見であるように思えたり、聞いた意見の正しさが自分の正しさであるように錯覚するような怖ささえあるでしょう。
自分で考えるという当たり前に思えるようなことも、実はなかなかに難しいものです。
私もまったくの独学(といえるほどにも詳しくない/汗)みたいなものですが、もっとちゃんと興味があるという人は「メディアリテラシー」や「クリティカルシンキング」などの言葉で色々調べてみてください。
ではでは、SLの中でまだまだ出来るんじゃない?と考えていることの、ちょっとマニアックな部分かもしれないようなことをまた書いていければいいなと思いつつ。
まぁ連載形式というのは始めるよりも最後まで終えるほうが大変なため、途中で中断する例が大半なのでお約束はできませんが、こんな書き散らかしにでも興味のある人はまたどうぞ。
サブプライム問題やリーマンショックなどを受けての経済的環境の世界的悪化以降、こうした流れをアメリカ支配の一極主義や金融帝国主義の崩壊などとする意見もあるようです。
そこに象徴的にオバマ大統領の登場などを絡めれば、一見はアメリカによる一極集中の時代から多極化の時代への変化という時代の流れに納得出来そうです。
しかし、例えばオバマさんに対する世界的な注目度などを報道で見ていると、イラクやアフガニスタンでハードパワーの戦略に失敗し金融工学を軸とするようなソフトパワーの戦略にも失敗した「アメリカの凋落」というよりはむしろ、世界的な方向性の漂流において何かしらの指標として新たなリーダーシップの登場を期待する印象を受けます。
人々の関心という点においては、明らかに二期目のブッシュ時代よりも耳目を集めていると言えるはずです。今のアメリカは。
そして、もう一歩踏み込んで振り返ってみれば、そもそも『9・11』の背景と言われたことにはアメリカの経済的発展がもたらす価値観的圧迫への反発があったはずで、だからこそワールドトレードセンターがその標的の一つに選ばれていた。
イラク開戦に反発する欧州の態度もまだまだ歴史になるには早いわけで、それがフランスのサルコジ大統領誕生の背景の一因(アメリカとの関係修復)になったことも思い出せます。(新しい欧州と古い欧州などなど)
一極支配や覇権主義の失敗という枠組みでアメリカを語り、それがまるで世界情勢の前提であるかのように考える意見については、個人的にはかなり懐疑的に見ています。
根本的にそうした意見の前提とされている枠組みの存在自体が、確固として証明されうるのかが怪しいからです。
冷戦構造崩壊から新たな流れが模索される時代の中でアメリカの力が相対的に突出した局面(90年代?~9・11)があり、またそれがしばらく続いていた中(9・11~イラク戦争後)中で、それでもまだしばらく世界的な影響力を持った国家の筆頭としてアメリカという存在は否定しがたい現実として続くのではないか。
アメリカの価値観を失敗と決め付ける反面で新しいリーダーをアメリカ(あるいはアメリカ的と言える強力なリーダーシップ)に求める矛盾が、最近のニュースにはそこはかとなく感じ取れて居心地の悪さがあります。
単独主義に走るだけの力が無くなったから多国間主義に切り替わる、という話のつじつまはシンプルにすぎて、逆に違和感が残るということです。
アメリカの方向性の変化は常にアメリカ大統領によってアメリカの国益であり国民の利益のためになされるはずで、その原則を思えば、ブッシュ時代を否定することだけで新たな時代を希望的に見せるような論調はおかしいと思えてくるわけです。
個人的には競争原理だけの市場万能主義や軍事力によるパワーバランスのみが世界の平和を保つとする考えにも疑問があるのですが、とはいっても状況認識に疑問を感じながら結論だけを賛成するのもまた居心地が悪い。
ましてやそれが、どこかで聞いたような話のつぎはぎによる漠とした認識と歯切れのいい結論の組み合わせとなると、なおさらです。
えっと、なんの話かというと、よく言われる話ほど疑ってかかったほうがいいということです。
瑣末な言葉尻や事実誤認をつついて物事を考えるのは精神的衛生上はあまりよくないわけですが、誰かの意見を見聞きする時には、批判的な視点(否定を前提する視点とは異なる)というものを常に意識しながら理解しようとする姿勢が大切だろうと思います。
一つの文章の中で話の整合性が取れているかどうかは、例えば文章力の問題も大きいわけです。
そして、一つのポイントにテーマを絞ってそのテーマの結論に導くための文章を書くことは、基礎的な訓練次第で誰でもできるようになるはず。(といっても、私にもそれが出来るかどうかは別ですが)
ニュース記事やそれに準ずるような場合、事実関係の部分と主観的判断や価値観の反映された部分を区別することは、読む側にとっても基本的な配慮となるでしょう。
その上で、特に価値観の部分については、慎重に考える習慣を身に付けたいと私は思うわけです。
IT系の情報というのも、ニュースの体裁をとっていながら個人的見解や感想を述べているだけの記事が少なくない印象です。
そのため、あまりIT系の情報サイトは見ないわけですが・・・。
SLについて取り扱った内容もそれらに含まれ、どこかで聞いたような定番の論点と認識に歯切れのいい結論の組み合わせ。
ブームが来ていると感じれば肯定的になり、ダメだと感じれば否定的になるだけで、その構造的な質については一年半前と今とでもあまり変わりがない気がします。
ひどいものになると、伝聞をもとに感想を書いたような記事がニュースサイトの中に堂々と載っているわけで。(苦笑)
そうした記事を受けてか、少なくともSLをやっている私の実感やそこから感じる問題点などとはやや焦点がずれた意見を、個人ブログなどでも判で押したように見かけます。
そういうのはブログのネタに使ってるだけだからいちいち気にするのも無駄だ、と言われればそれも一理あるかもですけどね。
SLについての評価の極点は、SLは終わったかどうかにあるような扱いをよく見かけます。
しかし、そもそも、ではSLは始まっていたのか?
何が?どのように?誰の手で?
今後はメディアの中でSLが終わったという意見自体を見かけることも少なくなってゆくかもしれませんが、私の個人的な考えの一つとして、SLがやってくると言ったメディアの取り上げ方の後始末として「SLは終わった」と書かざるを得ない”立場”というものがあるのではないか?と考えている部分があります。
まるでアメリカの一極支配がやってくると書いた、アメリカのやり方が正しい道しるべであると説いた、その後始末にアメリカの失敗を強調し新たな時代が幕開けるのだと言わなければならないかのように。
もちろん、インワールドでの個人的活動を終えて去った人が少なくないのは事実です。
実感からそれは否定しがたい現実としてあり、また大きな話題としての企業系SIMの閉鎖や撤退の話も動かしがたいものがあります。
しかし、そうした個別のSLとのつながりの終焉や停止が、大上段に構えた「SLは終わった」に直結するのだろうかという、そこの問題が置き去りにされがちであるのも確かではないでしょうか。
それらはむしろ、今のSLが終わったと感じる人の”思い描いていたSLの発展であり成功の姿こそが終わった”のだと、そう言いかえるのであれば私にはすんなりと納得できます。
今回の文章では、SLは終わっていない・・・とおススメしたいのではありません。
終わったかどうかはそれぞれの考えによってご自分で判断してもらうといいのですが、その時に人の意見を参考にするなら慎重に扱った上で参考にしたほうがいいと、そういう”考え方”自体をおススメしたいものです。
ですから、むろん私が書いているこの文章も鵜呑みにする必要などないわけですが、そもそも読んでる人が少ないという大前提があるのであまり気にする必要もないでしょう。(笑)
事実認識を大きく間違えたまま根拠としているような意見は論外としても、一つの事実というものは、そこから価値観の数だけ結論が導き出せるものだろうと思います。
事実と結論がそこそこ無理なく導き出せているように見えても、それをつなげている主観的な部分についてはよく考えるような癖をつけておいたほうがいいと、そういう考えです。
冗談に聞こえるかもしれませんが、よく似た前提の意見ばかりを繰り返し見聞きしていると、いつの間にか自分の意見が曖昧になって聞いた意見が自分の意見であるように思えたり、聞いた意見の正しさが自分の正しさであるように錯覚するような怖ささえあるでしょう。
自分で考えるという当たり前に思えるようなことも、実はなかなかに難しいものです。
私もまったくの独学(といえるほどにも詳しくない/汗)みたいなものですが、もっとちゃんと興味があるという人は「メディアリテラシー」や「クリティカルシンキング」などの言葉で色々調べてみてください。
ではでは、SLの中でまだまだ出来るんじゃない?と考えていることの、ちょっとマニアックな部分かもしれないようなことをまた書いていければいいなと思いつつ。
まぁ連載形式というのは始めるよりも最後まで終えるほうが大変なため、途中で中断する例が大半なのでお約束はできませんが、こんな書き散らかしにでも興味のある人はまたどうぞ。
2009年01月23日
歴史のすすめ。
過去が”あなた”です。
個であるアイデンティティを突き詰めてゆけば、連続性としての”物語”、つまりは歴史に行き着くのではないかと思います。
日記系のブログもまた現在進行形の個人史の記録であると考えると、そういった個人史をSLの中で記録することはあまりなく、むしろソラマメの制作日記などがそれに当たるでしょうか。
何を作ったのか、どう遊んだのかを積み重ねて歴史とし、それを自分の個性とする。
ソラマメの日記を自分が自分であるための証明・・・と考えれば、それをリセットするのは歴史のIFを試すような意味合いもあるのかもしれませんが・・・まあここでは脱線ですね。(あの時できなかったこと、言えなかったことを別の人生でやり直す?)
個人にしか歴史が無いわけではなく、国家や民族としての歴史も当然あって(というか歴史とは国家による物語であるという考えもある)、そして企業や地域にもそれはあるわけです。
そうした個人のような最小単位ではなく国家のような最大単位でもない、中間単位的な歴史というものは積み重ねとしての歴史が生まれているにもかかわらず見過ごされがちであることも大切なポイントだと思います。
見ようとしなければ見ることのできない物語。
それを、見ることのできる形としてSLの中に表現することには可能性があるのではないか?と思うわけです。
歴史を目に見える形にするというと抽象的ですが、いわゆる社史や創業者の記念館などは珍しくないわけです。
特に地方においてはその土地から生まれた地場産業の社史そのものが地域の歴史に直結している場合も多く、観光地の一つに歴史ミュージアムがあるのは定番中の定番でしょう。
それをSLの中に作るという形で企業が参入するようなこともあってもいい。
本社ビルの一室に自社商品の歴史をズラズラ並べても、そこに一体どれほどの人が足を運んでくれるのか。
HPに社史を年表にしても、それを誰が楽しみに見てくれるのか。
過去の商品をずらっと並べたミュージアムを目に見える形でSLの中に作りあげれば、会社を知ってもらう機会としては悪くないはず。(社長や創業者の自慢話ではなく、来た人に楽しんでもらえる工夫のある展示は必要ですが)
実際、インワールドの一部では、RLの歴史博物館と関係を結ぶ展示もおこなわれているようです。
中銀カプセルタワーの再現のように、本来はRLにおいて保存されてもいいような歴史的建築物をSLの中に作り上げるのも面白い試みです。
RLでは明治期の建築物を集めた明治村(名古屋)が有名ですが、そうした屋外展示型の博物館をSIMごと作れば、歴史的建造物の維持保存にかかる費用を大幅に圧縮した形で「目に見える歴史」とすることができるでしょう。(RLでは、維持保存をしたくても建築的な技法・職人の技が失われていたり建材・木材や一部の石材の入手が困難なこともある)
建築史を研究している大学などとの連携も生まれれば、インワールドにおける実績として海外では先行していると言われる教育関連での活用という点にも波及します。
あるいは、あちこちから有名な近現代の建築を集めるのではなく、各地方に既に指定されているような重要伝統的建造物群保存地区(ようするに古くて美しい町並み)を再現する方法もあります。
こうした地区は観光資源としての活用という観点から整備されている例もありますが、全国的な知名度の観光地は一部にとどまっている現状が否めません。
村おこし町おこしの一環として、観光行政の広報活動として、SLの中にこうした建物や地区を再現することは話題性という点でも大きなものがあります。
ふるさと納税なども踏まえていうと、自分たちの故郷を再発見するという効果も見込めるかもしれませんね。
また、世界的な観光地としての知名度を得ることのできる「世界遺産」の登録を巡る騒動は有名で、同時に指定後の観光客の爆発的な増大が騒音公害などといった環境破壊、ひいては歴史的遺産の破壊にもつながりかねない矛盾もまたよく知られていることです。
その割には遺産指定までのハードルの高さはかなりなモノですが、一方でSLは世界に通じた場所である点も忘れてはなりません。
京都の町屋が観光ポイントとして海外にも認知され始めたように、日本の中でさえ一部にしか知られていなかったものの魅力が海外の人たちを引き付ける可能性は、常に日常と隣り合わせに存在しているのです。
(惜しまれつつ閉鎖されたGIONや今もある金沢兼六園の再現などは、インワールドでもすでに有名ですよね)
歴史とは知らなければ存在しないわけで、まずは知ってもらうための努力が必要であり、そのためには形があることが望ましいでしょう。
つまり、SLの中で歴史を目に見える形にすることで個性を表現することは可能だろう、ということです。
そしてその歴史を形にする、あるいは形あるものから歴史をうったえることには、個人よりもむしろ会社や地方自治体などの組織体の歴史のほうがむいている面があるのではないか。
歴史を整理することは何かしらの歴史的事実の新発見につながることも多く、こうしたことがSLの中でもしもおこなわれるとすれば、再現のための現地調査によって現状などの調査資料が作成されることが最も理想的です。
まあ、ビジネスというよりはボランティアに大きく依存したような形でなければ難しいとも思いますが、歴史を資源として活用することのアプローチとしてRLよりもコスト(土地や家屋の維持費)の圧縮できるSLは、可能性としてゼロではないと私は思います。
(SLで人がいないとゴーストタウンと言われますが、地方の立派な歴史博物館の入場者数なんてメインランドの人数制限でさえ気にならないほどの数で、平日だと職員の数のほうが来館者より多いはず/箱モノで形にするよりもよっぽどコストにも環境にもいい)
参入する企業や組織にとっての「個性の表現」として、歴史は一つの形ではないか?と思うことを書いてみました。
正直言って、日本の各地方に埋没している郷土史などはあらゆる意味で原石だと思っています。
近現代史を知らない・興味ももっていないと言われる日本の現状の中では難しいと承知していますが、地方の百貨店(デパート)建築の歴史を社史と絡めて再現するような取り組みなどあれば、個人的にはとても面白い気がしてならないです。
銀行や百貨店は地元の豪商が発祥の場合も多く、その商品も土地に根差した物や街道などの交通事情にも関連するので郷土史そのものと言ってもいいんじゃないかと・・・ってこれも脱線ですが。(苦笑)
今の商品を並べた百貨店よりも、大正時代などを再現した百貨店があれば行ってみたいと思いませんか?
三越がそれに近い形?をやりかけていたようでしたが、ね。
(あと十年もすれば、そもそもこうした近現代建築自体がRLで死滅することは確実ですし/建て替えた後の記念碑がせいぜいで、有名なモノでも建物の一部が遺構として残されるのが精いっぱいのことが多い)
えっと、書きだすと止まらなくなるのでひとまずこの辺で。(汗)
個であるアイデンティティを突き詰めてゆけば、連続性としての”物語”、つまりは歴史に行き着くのではないかと思います。
日記系のブログもまた現在進行形の個人史の記録であると考えると、そういった個人史をSLの中で記録することはあまりなく、むしろソラマメの制作日記などがそれに当たるでしょうか。
何を作ったのか、どう遊んだのかを積み重ねて歴史とし、それを自分の個性とする。
ソラマメの日記を自分が自分であるための証明・・・と考えれば、それをリセットするのは歴史のIFを試すような意味合いもあるのかもしれませんが・・・まあここでは脱線ですね。(あの時できなかったこと、言えなかったことを別の人生でやり直す?)
個人にしか歴史が無いわけではなく、国家や民族としての歴史も当然あって(というか歴史とは国家による物語であるという考えもある)、そして企業や地域にもそれはあるわけです。
そうした個人のような最小単位ではなく国家のような最大単位でもない、中間単位的な歴史というものは積み重ねとしての歴史が生まれているにもかかわらず見過ごされがちであることも大切なポイントだと思います。
見ようとしなければ見ることのできない物語。
それを、見ることのできる形としてSLの中に表現することには可能性があるのではないか?と思うわけです。
歴史を目に見える形にするというと抽象的ですが、いわゆる社史や創業者の記念館などは珍しくないわけです。
特に地方においてはその土地から生まれた地場産業の社史そのものが地域の歴史に直結している場合も多く、観光地の一つに歴史ミュージアムがあるのは定番中の定番でしょう。
それをSLの中に作るという形で企業が参入するようなこともあってもいい。
本社ビルの一室に自社商品の歴史をズラズラ並べても、そこに一体どれほどの人が足を運んでくれるのか。
HPに社史を年表にしても、それを誰が楽しみに見てくれるのか。
過去の商品をずらっと並べたミュージアムを目に見える形でSLの中に作りあげれば、会社を知ってもらう機会としては悪くないはず。(社長や創業者の自慢話ではなく、来た人に楽しんでもらえる工夫のある展示は必要ですが)
実際、インワールドの一部では、RLの歴史博物館と関係を結ぶ展示もおこなわれているようです。
中銀カプセルタワーの再現のように、本来はRLにおいて保存されてもいいような歴史的建築物をSLの中に作り上げるのも面白い試みです。
RLでは明治期の建築物を集めた明治村(名古屋)が有名ですが、そうした屋外展示型の博物館をSIMごと作れば、歴史的建造物の維持保存にかかる費用を大幅に圧縮した形で「目に見える歴史」とすることができるでしょう。(RLでは、維持保存をしたくても建築的な技法・職人の技が失われていたり建材・木材や一部の石材の入手が困難なこともある)
建築史を研究している大学などとの連携も生まれれば、インワールドにおける実績として海外では先行していると言われる教育関連での活用という点にも波及します。
あるいは、あちこちから有名な近現代の建築を集めるのではなく、各地方に既に指定されているような重要伝統的建造物群保存地区(ようするに古くて美しい町並み)を再現する方法もあります。
こうした地区は観光資源としての活用という観点から整備されている例もありますが、全国的な知名度の観光地は一部にとどまっている現状が否めません。
村おこし町おこしの一環として、観光行政の広報活動として、SLの中にこうした建物や地区を再現することは話題性という点でも大きなものがあります。
ふるさと納税なども踏まえていうと、自分たちの故郷を再発見するという効果も見込めるかもしれませんね。
また、世界的な観光地としての知名度を得ることのできる「世界遺産」の登録を巡る騒動は有名で、同時に指定後の観光客の爆発的な増大が騒音公害などといった環境破壊、ひいては歴史的遺産の破壊にもつながりかねない矛盾もまたよく知られていることです。
その割には遺産指定までのハードルの高さはかなりなモノですが、一方でSLは世界に通じた場所である点も忘れてはなりません。
京都の町屋が観光ポイントとして海外にも認知され始めたように、日本の中でさえ一部にしか知られていなかったものの魅力が海外の人たちを引き付ける可能性は、常に日常と隣り合わせに存在しているのです。
(惜しまれつつ閉鎖されたGIONや今もある金沢兼六園の再現などは、インワールドでもすでに有名ですよね)
歴史とは知らなければ存在しないわけで、まずは知ってもらうための努力が必要であり、そのためには形があることが望ましいでしょう。
つまり、SLの中で歴史を目に見える形にすることで個性を表現することは可能だろう、ということです。
そしてその歴史を形にする、あるいは形あるものから歴史をうったえることには、個人よりもむしろ会社や地方自治体などの組織体の歴史のほうがむいている面があるのではないか。
歴史を整理することは何かしらの歴史的事実の新発見につながることも多く、こうしたことがSLの中でもしもおこなわれるとすれば、再現のための現地調査によって現状などの調査資料が作成されることが最も理想的です。
まあ、ビジネスというよりはボランティアに大きく依存したような形でなければ難しいとも思いますが、歴史を資源として活用することのアプローチとしてRLよりもコスト(土地や家屋の維持費)の圧縮できるSLは、可能性としてゼロではないと私は思います。
(SLで人がいないとゴーストタウンと言われますが、地方の立派な歴史博物館の入場者数なんてメインランドの人数制限でさえ気にならないほどの数で、平日だと職員の数のほうが来館者より多いはず/箱モノで形にするよりもよっぽどコストにも環境にもいい)
参入する企業や組織にとっての「個性の表現」として、歴史は一つの形ではないか?と思うことを書いてみました。
正直言って、日本の各地方に埋没している郷土史などはあらゆる意味で原石だと思っています。
近現代史を知らない・興味ももっていないと言われる日本の現状の中では難しいと承知していますが、地方の百貨店(デパート)建築の歴史を社史と絡めて再現するような取り組みなどあれば、個人的にはとても面白い気がしてならないです。
銀行や百貨店は地元の豪商が発祥の場合も多く、その商品も土地に根差した物や街道などの交通事情にも関連するので郷土史そのものと言ってもいいんじゃないかと・・・ってこれも脱線ですが。(苦笑)
今の商品を並べた百貨店よりも、大正時代などを再現した百貨店があれば行ってみたいと思いませんか?
三越がそれに近い形?をやりかけていたようでしたが、ね。
(あと十年もすれば、そもそもこうした近現代建築自体がRLで死滅することは確実ですし/建て替えた後の記念碑がせいぜいで、有名なモノでも建物の一部が遺構として残されるのが精いっぱいのことが多い)
えっと、書きだすと止まらなくなるのでひとまずこの辺で。(汗)
2009年01月19日
参入のすすめ。
あなたに個性があれば、それを表現する場所がSLにはあります。
個人がSLを始めることに参入という言葉は使わないでしょうから、企業についての話になりますね。
企業がSLを宣伝に使う事自体に問題はないと思います。
メインコンテンツが無いことがSLの弱みだとも言われますが、SLの企業(リンデンラボ社)としての利害に真正面から喧嘩を売るものではない限り、自社の広告をインワールドでおこなう(広告をコンテンツとする)ことに制約はないでしょう。
強固なコンテンツが無い代わりにある自由さを、どうやって企業のアピールとして使えるかが重要になるはずです。
では、そもそも何をアピールするのか。
「SLを楽しむ個人」にヒントはあると思います。
個性を表現することが可能なSLであれば、企業としてもその個性をインワールドで伝える方法が必ずあるはずです。
リンデンドルを使ってイベントを打ち出すことには限定的な効果しかありません。
SLの中にいる、という意味での存在感は伝えることができますが、企業としての個性をアピールするためには有効ではないでしょう。
参入した企業がSLの住人にとって面白くないのは、そこに”顔”が見えないからだろうと思います。
SLにおけるコンテンツの究極は、人そのものです。
会社として理念や個性があればそれを打ち出せばいい。
SLの中で出来ることの幅はアイデアの数だけあるわけで、それに中身の核となる個性が結び付けばちゃんと形になってゆくはずです。
例えば、個人や中小規模の飲食業などは特にお勧めです。
流れで食べ物系のアイテムを作ってきた私ですが、SLでの食べ物はまだまだ成熟した分野ではありません。
食べ物を通じて人を楽しませようとする理念や、その上でこだわりを持ったお勧めの料理があれば、ちゃんと時間をかけてインワールドのアイテムとして作ることは可能です。
なぜ飲食店をやっているのかというこだわり、それを個性としてインワールドで表現することはできます。
SLの中でアイテムを楽しんだ人がすぐにRLのお店に行く、とは考えないほうがいいでしょう。
しかし、SLをやっている人がアイテムを紹介したりするときに、自分たちの理念も共に紹介してくれる機会はあると思います。
二次的効果や三次的効果として、飲食店をやっていることのこだわりを広めてゆくきっかけとして、SLの食べ物アイテムは可能性があります。
ネット上にホームページを作って写真だけを載せるよりも、インワールドで食べてもらってどんな味なんだろうと興味を持ってもらう効果の方が大きいことは確かです。
SLで慣れ親しんだ食べ物をRLで見かけた時、それに手を伸ばさない理由はどこにもありません。
また、理念やこだわりを文章で書いて載せておくよりも、それを反映させたインワールドのアイテムを作るほうが具体的なイメージの核(見た目という形をともなうイメージへの連想)が伝わります。
一般的に抽象的な理念を伝えたりすることは難しいのですが、仮想世界のアイテムだからこそ、そうしたイメージの部分はダイレクトに受け取ってもらえる可能性もあります。
むろん、ネット上でお取り寄せが可能な食べ物であればなおさら参入のメリットは増えます。
ちなみに、サントリーがSLの中で自社の飲み物をすべて作り上げてしまわなかったのが、個人的には不思議でなりませんでした。
ソフトドリンクからアルコールまで、いまごろインワールドを席巻出来ていたでしょうに。(写真をただ貼ったアイテムではもちろんダメ。安易な作りのコカコーラなど、最近は全く目にしなくなっています。スニッカーもそう)
大企業ほど「規模としてのメリット」を求めるからで、自分たちの個性を分かってもらえる人に伝えるという地道なことにはあまり興味がないのかもしれません。(大企業の場合、基礎的な認知度がケタ違いですしね)
SLが狭い世界であることは確かなのですが、と同時にそこには興味を持ってくれる人たちがいることも確かなのです。
市場ではなく”人”を見れば、おのずとやるべきことも見えてくるのではないでしょうか。
大きな広告を出せる体力はないけど伝えたいモノがある会社にとっては参入のメリットがある、ということなのかもしれません。
大切なことは、売ることそのものの広告ではなく、何を伝えたいのかをちゃんと伝えることのできる方法でインワールドの活動をすること。
それを形として、目に見えるものとして人を楽しませることができれば、なおいいです。
個人で個性を表現している人たちに参入する企業が学ぶことができれば、参入も失敗だけで終わることはないと私は考えます。
人を”人”としてみたうえで、コミュニケーションをとろうとする姿勢が重要でしょう。
既存の参入企業の手法?ではそれが必ずしもうまくいっていたようには感じませんでした。
他にもいくつか考えていることの例をあげて書いてみたいと思いますので、またの機会があればどうぞ。
個人がSLを始めることに参入という言葉は使わないでしょうから、企業についての話になりますね。
企業がSLを宣伝に使う事自体に問題はないと思います。
メインコンテンツが無いことがSLの弱みだとも言われますが、SLの企業(リンデンラボ社)としての利害に真正面から喧嘩を売るものではない限り、自社の広告をインワールドでおこなう(広告をコンテンツとする)ことに制約はないでしょう。
強固なコンテンツが無い代わりにある自由さを、どうやって企業のアピールとして使えるかが重要になるはずです。
では、そもそも何をアピールするのか。
「SLを楽しむ個人」にヒントはあると思います。
個性を表現することが可能なSLであれば、企業としてもその個性をインワールドで伝える方法が必ずあるはずです。
リンデンドルを使ってイベントを打ち出すことには限定的な効果しかありません。
SLの中にいる、という意味での存在感は伝えることができますが、企業としての個性をアピールするためには有効ではないでしょう。
参入した企業がSLの住人にとって面白くないのは、そこに”顔”が見えないからだろうと思います。
SLにおけるコンテンツの究極は、人そのものです。
会社として理念や個性があればそれを打ち出せばいい。
SLの中で出来ることの幅はアイデアの数だけあるわけで、それに中身の核となる個性が結び付けばちゃんと形になってゆくはずです。
例えば、個人や中小規模の飲食業などは特にお勧めです。
流れで食べ物系のアイテムを作ってきた私ですが、SLでの食べ物はまだまだ成熟した分野ではありません。
食べ物を通じて人を楽しませようとする理念や、その上でこだわりを持ったお勧めの料理があれば、ちゃんと時間をかけてインワールドのアイテムとして作ることは可能です。
なぜ飲食店をやっているのかというこだわり、それを個性としてインワールドで表現することはできます。
SLの中でアイテムを楽しんだ人がすぐにRLのお店に行く、とは考えないほうがいいでしょう。
しかし、SLをやっている人がアイテムを紹介したりするときに、自分たちの理念も共に紹介してくれる機会はあると思います。
二次的効果や三次的効果として、飲食店をやっていることのこだわりを広めてゆくきっかけとして、SLの食べ物アイテムは可能性があります。
ネット上にホームページを作って写真だけを載せるよりも、インワールドで食べてもらってどんな味なんだろうと興味を持ってもらう効果の方が大きいことは確かです。
SLで慣れ親しんだ食べ物をRLで見かけた時、それに手を伸ばさない理由はどこにもありません。
また、理念やこだわりを文章で書いて載せておくよりも、それを反映させたインワールドのアイテムを作るほうが具体的なイメージの核(見た目という形をともなうイメージへの連想)が伝わります。
一般的に抽象的な理念を伝えたりすることは難しいのですが、仮想世界のアイテムだからこそ、そうしたイメージの部分はダイレクトに受け取ってもらえる可能性もあります。
むろん、ネット上でお取り寄せが可能な食べ物であればなおさら参入のメリットは増えます。
ちなみに、サントリーがSLの中で自社の飲み物をすべて作り上げてしまわなかったのが、個人的には不思議でなりませんでした。
ソフトドリンクからアルコールまで、いまごろインワールドを席巻出来ていたでしょうに。(写真をただ貼ったアイテムではもちろんダメ。安易な作りのコカコーラなど、最近は全く目にしなくなっています。スニッカーもそう)
大企業ほど「規模としてのメリット」を求めるからで、自分たちの個性を分かってもらえる人に伝えるという地道なことにはあまり興味がないのかもしれません。(大企業の場合、基礎的な認知度がケタ違いですしね)
SLが狭い世界であることは確かなのですが、と同時にそこには興味を持ってくれる人たちがいることも確かなのです。
市場ではなく”人”を見れば、おのずとやるべきことも見えてくるのではないでしょうか。
大きな広告を出せる体力はないけど伝えたいモノがある会社にとっては参入のメリットがある、ということなのかもしれません。
大切なことは、売ることそのものの広告ではなく、何を伝えたいのかをちゃんと伝えることのできる方法でインワールドの活動をすること。
それを形として、目に見えるものとして人を楽しませることができれば、なおいいです。
個人で個性を表現している人たちに参入する企業が学ぶことができれば、参入も失敗だけで終わることはないと私は考えます。
人を”人”としてみたうえで、コミュニケーションをとろうとする姿勢が重要でしょう。
既存の参入企業の手法?ではそれが必ずしもうまくいっていたようには感じませんでした。
他にもいくつか考えていることの例をあげて書いてみたいと思いますので、またの機会があればどうぞ。
2009年01月16日
SLのすすめ。
あなたがSLに何をしてくれるかではなく、あなたがSLに何をできるかを考えよう。
まあ、これは言葉のもじりそのままなんですけどね。
SLに関わってきた自分の考えを記録する意味で、ちょっと駄文を書き散らかしておこうと思います。
念のため書いておきますが、ここで書いた内容の文責は「この私のブログ内に限ったもの」とし、部分的な引用やリンク先などにまでは関知しませんので悪しからず。
冒頭の言葉は、別にリンデンラボに貢献しろという意味ではありません。
SLというのは”人”が大切だと思うので、言葉を補えば、SLの中にいる人が何をしてくれるかではなくSLの中にいる人に何ができるかを、となります。
企業系の撤退がSLの凋落を象徴しているとして、世間的にはSLは失敗したと言われているようですね。
先日の日経新聞にもSLの現状を酷評する記事が大きく取り上げられていたそうですが、私の探し方が悪かったのか、ネット上では記事が読めませんでした。
新聞社のネットに対するネガティブなスタンスは今にはじまったものではありませんが、終わった終わったという意見の前に、では何が始まっていたのか?を考えてみる必要があるでしょう。
SLに参入した企業について、リンデンドルを配るイベント以外に大きな評判はあまり聞きません。
事務所だけを作って人がいない、つまらない、面白くないとはよく聞きます。
SLを宣伝の場所として参入することの問題点は当初からも指摘されていたことですが、それは既存の宣伝方法にとらわれていたからの失敗ではないかという気がします。
自社の宣伝などをあまり考えず、企業がスポンサーとなって魅力あるSIMを構築した場所はあったわけです。
惜しまれつつも撤退した企業系SIMもあったことを考えると、人に宣伝して利益を得ようというスタンスではなく、「人を引き付けるコンテンツを提供することが宣伝につながる」ということが大切だったのではないかと思います。
ここでありがちなのが、いわゆるゴーストタウンではないでしょうか。
建物はいいけど人がいない。
いかにもSLを表面的なもの(子供だまし?)として考えているような薄っぺらい建物はともかくとしても、ある程度作り込まれたクオリティであっても、人がいなくなることは起こり得ます。
SLで大切なモノが人だとすると、ただいい建物を建てることではコンテンツとして魅力的とは言えないということになります。
RLで起きたバブル期の箱モノ主義のように、見かけのいい青写真に比較して中身が充実していなければ、結果としてゴーストタウンが生まれることは当然ともいえるのかも。
SLが終わったという意見については、全否定するものではありません。
一言でいえば淘汰されてきたということになりますが、SLに入って中にいる人たちから利益を得ようとした企業ほど、一早く淘汰されていったのではないかと思います。
しかし私は、企業がSLの中に入ってゆくことに否定的ではないのです。
むしろ、今のほうがRLの企業はSLに参入しやすいのではないか?とさえ考えています。
終わったのは短期的な宣伝効果や利益をSLから得ようとした参入の方法であって、また将来的な爆発的発展を期待した投資的参入も基礎体力次第で撤退を余儀なくされていったのでしょう。
何をしてもらえるか、「どんな利益が得られるのかだけを考えた参入は失敗した」、そんな参入の終わりであったことには間違いないと私は思っています。
ここで書く駄文が、SLに興味を持ってもらえる機会となれば幸いです。
まあ、これは言葉のもじりそのままなんですけどね。
SLに関わってきた自分の考えを記録する意味で、ちょっと駄文を書き散らかしておこうと思います。
念のため書いておきますが、ここで書いた内容の文責は「この私のブログ内に限ったもの」とし、部分的な引用やリンク先などにまでは関知しませんので悪しからず。
冒頭の言葉は、別にリンデンラボに貢献しろという意味ではありません。
SLというのは”人”が大切だと思うので、言葉を補えば、SLの中にいる人が何をしてくれるかではなくSLの中にいる人に何ができるかを、となります。
企業系の撤退がSLの凋落を象徴しているとして、世間的にはSLは失敗したと言われているようですね。
先日の日経新聞にもSLの現状を酷評する記事が大きく取り上げられていたそうですが、私の探し方が悪かったのか、ネット上では記事が読めませんでした。
新聞社のネットに対するネガティブなスタンスは今にはじまったものではありませんが、終わった終わったという意見の前に、では何が始まっていたのか?を考えてみる必要があるでしょう。
SLに参入した企業について、リンデンドルを配るイベント以外に大きな評判はあまり聞きません。
事務所だけを作って人がいない、つまらない、面白くないとはよく聞きます。
SLを宣伝の場所として参入することの問題点は当初からも指摘されていたことですが、それは既存の宣伝方法にとらわれていたからの失敗ではないかという気がします。
自社の宣伝などをあまり考えず、企業がスポンサーとなって魅力あるSIMを構築した場所はあったわけです。
惜しまれつつも撤退した企業系SIMもあったことを考えると、人に宣伝して利益を得ようというスタンスではなく、「人を引き付けるコンテンツを提供することが宣伝につながる」ということが大切だったのではないかと思います。
ここでありがちなのが、いわゆるゴーストタウンではないでしょうか。
建物はいいけど人がいない。
いかにもSLを表面的なもの(子供だまし?)として考えているような薄っぺらい建物はともかくとしても、ある程度作り込まれたクオリティであっても、人がいなくなることは起こり得ます。
SLで大切なモノが人だとすると、ただいい建物を建てることではコンテンツとして魅力的とは言えないということになります。
RLで起きたバブル期の箱モノ主義のように、見かけのいい青写真に比較して中身が充実していなければ、結果としてゴーストタウンが生まれることは当然ともいえるのかも。
SLが終わったという意見については、全否定するものではありません。
一言でいえば淘汰されてきたということになりますが、SLに入って中にいる人たちから利益を得ようとした企業ほど、一早く淘汰されていったのではないかと思います。
しかし私は、企業がSLの中に入ってゆくことに否定的ではないのです。
むしろ、今のほうがRLの企業はSLに参入しやすいのではないか?とさえ考えています。
終わったのは短期的な宣伝効果や利益をSLから得ようとした参入の方法であって、また将来的な爆発的発展を期待した投資的参入も基礎体力次第で撤退を余儀なくされていったのでしょう。
何をしてもらえるか、「どんな利益が得られるのかだけを考えた参入は失敗した」、そんな参入の終わりであったことには間違いないと私は思っています。
ここで書く駄文が、SLに興味を持ってもらえる機会となれば幸いです。