ソラマメブログ

  

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2008年06月30日

血とし肉となり。

その糧をもって生きる。
SLで生きることは、RLでの生(せい)とかわりがないのかもしれない。
ただし、その身に取り込み咀嚼していくのは他者の夢や挫折、別れや出会いであるというだけで・・・。



仮想世界を支えているものはRLの人間です。
その思いや欲望があるからこそ「仮想」として現実に存在できている。
仮想世界を現実とは切り離された虚構であるとしか見れないことは、ある意味において、現実世界の人々が持つ思いや心を無視するに等しい気もします。
世界としての制約や形の在り方が現実とは異なり、その点で仮想の持つ非現実性は確かにあります。
しかし、だからこそ仮想と現実をつなぐのは人であり、「人の思いそのもの」が両者に共通して存在する核心なのかもしれない。

やりたい事が見つからずに去っていく人、やりたい事にくじけて去っていく人、やりたい事をRLに見つけて去っていく人。
SLを去る、もしくは長期の休養を必要とするということに、どこかしらの哀しさを感じてしまうのがSLに生きる人々の気持ちだという気がします。
それは理屈抜きの部分であり、残念な気持ちや反発し引き止めたくなる条件反射、そしていつか自分も・・・という切ない共感がそこにはあるのでしょうか。
生において死が必然であるように、SLに関わることには「去る」ということもまた、リアリティを伴うものだと実感していくのが自然な感覚にも思えます。
人の死を体験していく中で自分自身の生死観を見つめていくかのように。

では、やめてしまった何かや去っていくことは無駄なことだったのでしょうか?
古今東西、人は生まれて死に続けてきたように、SLの中でも”それ”は繰り返されていって当然のことなのかもしれません。
それが営みというものではないか、とさえ思う。
RLの私たちが先人たちの繰り返した営みの上に立つように、SLの私たちもまたあらゆる成功や挫折、出会いや別れの上に成り立ち生きている。
たとえお店が無くなり、人が去り、二度と開かれないイベントを思ったとしても、それらは「無」ではなく今を支える営みを構成している、とても大切な何かであるのかもしれない。
そして、それは「人の思い」なのではないのか??
悲喜こもごも折り重なり積み上げられた人の思いの上に立ち、今とこれからがある。
そこに自分がいる、それこそがSLの生ではないかと・・・ふと思ったり。

生きるということは生かされるということでもあり、人が一人では生きられないことと同じように、何ものとも無縁で生かされている訳もない。
去っていく人、去っていった人が残してくれたものの数々こそが、実は私たちを支えてくれる価値あるモノなのかも。
人々の思いを咀嚼して自分の思いを存在させるSL。
それはまた、自分の思いが誰かに咀嚼され誰かを生かすことにもつながる、営みの輪の中にあることも意味するのでしょうか。

去っていった人、去っていく人、これから出会うであろう人。
全ての思いの中で生かされる自分を思えば、他者への感謝ということを率直に感じざるをえません。
ありがとう。



いつか、自分が他者の糧となれるように、生を全うしたいものですな。  


Posted by Zusi at 12:50Comments(2)思った・考えた